この悲惨な記憶はぜったい忘れるべからず「土石流被災家屋保存公園」に行ってきたっぺ
年配のかたなら記憶に残っているだろう1991年5月に雲仙普賢岳の噴火と火砕流によって43人もの尊い犠牲者を出した自然災害。今回は当時の被災家屋がそのまま残されている「土石流被災家屋保存公園」に行ってきた。
本日訪問したところは「土石流被災家屋保存公園」、道の駅みずなし本陣の中にあるのだ。ここは雲仙普賢岳噴火時の土石流災害によって被災した11件もの家屋がそのままの状態で保存されているのだ
当時の消防指揮車がそのまま残されている。
家屋は屋根の下までほとんど土石流で埋まっている。普賢岳の噴火がいかにすごかったかがうかがえる
- 平成2年 (1990年) 11月17日 普賢岳からはじめて噴煙あがってるところを発見
- 平成3年 (1991年) 2月12日 最初の噴火口とは別な火口が出現
- 平成3年 (1991年) 5月15日 土石流が発生し水無川になだれ込む
- 平成3年 (1991年) 5月20日 溶岩ドームの出現を確認が出現
- 平成3年 (1991年) 5月24日 初めての大規模火砕流が発生
日本各地からテレビや新聞などの報道関係者が火砕流のようすをとらえるために「定点」と呼ばれる観測所に陣取る。難勧告地域内であったが、溶岩ドームから4.0km以上も離れておりまた、先の土石流が流れ込んだ水無川からも200m近く離れていた。
当時のマスコミおよび現地の住民もまったく危険性を認知していなかったのだ( ゚Д゚)
5月26日 大規模火砕流が発生、この火砕流は周囲の予想に反し住宅街まで降りてきた
定点にいた取材陣たちに退去勧告を出すものの彼らは聞き入れなかった
そして運命の6月3日を迎えるのである
- 平成3年 (1991年) 6月3日 大規模火砕流が発生 (死者・行方不明者43名:家屋焼失・倒壊179棟)
警察官 2名
消防団員12名
報道関係者 16名
タクシー運転手 (マスコミがチャーターしていた) 4名
外国人 3名
一般人 3名 (行方不明3名)
火砕流の速度は約100km/h`にもなるという。また温度は数百~千度、もはや迫ってきたらオワコンなのだ
屋根の瓦から下は全部埋まっている。
- 火砕流発生回数 9,432回(H3.5~H8.5)
- 土石流発生回数 62回(H3.5.15~H12.3.31)
- 建物被害 2,511棟(うち住家1,399棟)
- 被害額 約2,299億円
ただ非常に幸いなことに先の5月15日の避難勧告によりこれらの住民はすべて避難していたので土石流による死者はいなかったんだよ
千羽鶴が非常に心痛い
すげぇ小銭が投げ込まれていたよ
この後何度も土石流や火砕流が発生、噴火活動の終息宣言が出て災害対策本部が解散されれるまでにさらに5年もの月日を要したのだ
【雲仙普賢岳噴火災害とマスコミ】
今もなお当時のできごとで引き合いに出されるのはマスコミの過熱報道だよ。再三の避難勧告を無視して他社よりも迫力ある映像や写真を撮りたい。先の亡くなられた14名の消防団員は噴火直後に定点で撮影していたマスコミに避難勧告をさせるためだった。
もしマスコミが指示通りに避難していたら....
消防団員も待機させていたタクシーの運ちゃんも死なずにすんだのだよ。また勝手に空き家になった民家に入り込んで電話や電気使ったりとマスコミの「傍若無人」っぷりはハンパないものがあったそうだよ。
火砕流や土石流による家屋倒壊は自然災害、でも多くの犠牲者が出たのは「報道の自由」をたてにとった無謀な報道合戦による「人災」であることを忘れてはいけないんだよ