社内ニートが巡る全国旅日記

今にも会社クビになりそうな超ド底辺社畜ニートがいろんなとこ巡ってます

旧トードス・オス・サントス教会堂跡「春徳寺」へ行ってきた(^▽^)/

長崎市電の中川町停留所から徒歩で約10分ほどのところにある華厳山春徳寺に行ってきた。このお寺も筑後町にある本蓮寺と同じように昔カトリック教会であった跡地に建てられた仏教寺院なのだ

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春徳寺の前に建てられていたのは長崎で最初に建てられたカトリック教会、「トードス・オス・サントス教会」当時のイエズス会ルイス・デ・アルメイダの協力もあって建設された教会であった

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【春徳寺(トードス・オス・サントス教会堂跡)】

 [トードス・オス・サントス教会堂時代]

  • 1569年(永禄12)にビレラ神父によって大村純忠の家臣だった長崎甚左衛門がイルマン・ルイス・アルメイダに与えた土地に建てられた
  • ルイス・アルメイダとは長崎ではじめてキリスト教の布教をしたとされイエズス会の宣教師
  • 1602年(慶長7)と1605年(慶長10)には修練院も開かれた
  • 以後、1602年(元和5)までこの教会は存続する
  • 1619年に禁教令によって教会は破壊される

 

 [春徳寺時代]

  • 1630年(寛永7)に岩原郷(現在の立山町)に開山。当時は華厳山ではなく大梅山春徳寺と称していた
  • 1640年(寛永17) 幕府の命によって破壊されたトードス・オス・サントス教会跡地に寺を移転する
  • 幕府の命により当時の寺の住職は輸入された書籍の中からキリスト教関係の記述の有無を検査する任務を任されていた。
  • 14代住職の鉄翁禅師は南画家としても知られ、木下逸雲、三浦悟門らとともに長崎三画家の一人と言われる
  • 当時の春徳寺の周辺には南蛮からもたらされたタバコの種が植えられ一面タバコ畑だった
  • この寺の裏山には中国文化の影響を色濃く残す広大な「東海の墓」がある
  • カトリック教会時代の遺構としてキリシタン井戸が残っている

 

門をくぐるとこのような本殿がある。行った日はだれもいなかったよ

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この寺は非常に小さいお寺だったよ(墓地の部分は除く)、もちろん日本庭園の中のキリシタン井戸までは行けなかったけど

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残念ながらこの寺でいちばん有名なキリシタン井戸は事前予約が必要なのだ。いきなり行っても見れません。

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おそらくここがキリシタン井戸であると思われる。しかたがないので寺の外から撮った

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次にこの寺の裏山ある「東海の墓」に行ってみることにする。ここの細い道から入っていくんだよ

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花火による火災ってww 

(寺の境内で花火はまずいっしょw )

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こんな道をひたすら歩いていくのだ、かなりの距離を歩く

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「東海の墓」に到着したすげえ墓だよ。東海家とは中国を先祖とする家系の人々らしくて唐通事って役職を歴任したそうだ。この先は5段になっていて計29基もの墓がある

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写真だとあまり感じないけどすごい雑草だよ。もはやヘビのいる気配を感じたため最上段まで行くのはやめておいた

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にほんのことわざの中に「東海の墓普請(とうかいのはかぶしん)」という言葉があるけどこれは当時の東海徳左衛門が墓を気に入るまで何度も作り直させたということで、手間ばかりかかっていっこうに仕事がはかどらないという意味

 

 

 

最後に...

 

 

そんなに花火の害にあってんのかよw  

(祟られるぞ)

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長崎の西洋文化をぎゅっと集めた!「グラバー園」に行ってきたっぺ(*^-^*)

長崎でいちばんの観光地はどこ?と聞かれたらおそらくハウステンボス大浦天主堂と次に挙がるのがグラバー園というくらい有名な観光地、日本最古の木造洋風建築で中学の卒業旅行でもここを訪れているがもはや当時の記憶なんてまったくないのだ

 

ということで行ってみることにした

 

ここがグラバー園の入口、大浦天主堂のとなりなのだ。今日は月曜日の午前中ということもありさすがのグラバー園も人はほとんどいなかった

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ここからずっと登っていくことになる。階段とエスカレーターのセットになっている。このエスカレーターは1988年(昭和63)に設置されたので中学のころに来たときはこの階段を延々登っていったのだ

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グラバー園の入場料は一般大人が620円、けっこう安いがハンパな料金設定だよ。

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ここも連絡先カード書かされた。もう長崎のいろんなとこで何回こんなものを書かされたことか....長崎という異国の地で俺の個人情報がどんどん広がっていくんだよ

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入場してからまたこんな非常に長いエスカレーター日本で初めて道路として認められた「別名:動く歩道グラバースカイロード」で延々頂上をめざす

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グラバー園とは】

 

登りつめるといちばん高いところに「旧三菱第2ドックハウス」という建物がある。ここは当時船が修理などのために停泊している間に船員たちが宿泊・休憩する施設として、三菱重工業長崎造船所が建てた施設

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ここに着いたときはちょうど朝の10:30だった。あと30分で園内ガイドツアーがはじまる。この看板のまえでガイドツアーのおじさんがずっと立ってたんだけど

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時間になっても誰も来ねぇww

 

 

まぁ今日は観光客もまばらで俺以外に4~5組の家族連れしかいなかったから仕方がないか。このガイドのおっちゃんが観光客つかまえては「よろしかったら案内しますよ♪」ってっ逆に声かけとったよw

 

旧三菱第2ドックハウスの中はこんな感じ。昔の西洋の帆船の模型とかが展示されてたんですけど、長崎のいろんなとこで散々見たような内容なので

 

「もうおなかいっぱいっす!!」

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洋館の中庭はこんな感じ。大きい池があって鯉がいっぱい泳いでいる。ちなみに鯉のエサは鯉ガチャで買えるようになっていてしかもおみくじまで付いているのだ

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ここから見る長崎の港は最高だったよ、グラバー園は期間限定だが夜間開放もしている。たぶん長崎市民にとって最高のデートスポットだと思う

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カメラのズームをMaxにすると自衛隊イージス艦が停泊している。海上自衛隊の基地って佐世保じゃなかったか?って思ったが長崎港には三菱長崎造船所があって自衛隊の艦船の修理や点検基地となっていりそうなんだよ

 

手前はおそらくこんごう級で後ろが新型艦じゃね?

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高島流和砲、高島秋帆っていう兵学者の指導によって鉄砲鍛冶の野川清造が製造した大砲

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中庭でさっきのガイドツアーのおっちゃんが寂しそうに一人でうろうろしとったよw

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歴史の泉

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旧長崎高商表門衛所、これは長崎高等商業学校(現長崎大学経済学部)の表門衛所で1905年に建てられたもの。1976年にここに移築された

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旧ウォーカー住宅、「R. N. ウォーカー商会」を設立したロバート・ネール・ウォーカーの次男の旧邸で大正4年に購入し昭和33年までこの建物で暮らしていた

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【旧ウォーカー住宅】

  • ここはイギリス人船長だったロバート・ネール・ウォーカーの次男、ロバート・ウォーカー・ジュニアの住宅
  • ロバート・ネール・ウォーカー(以下、ウォーカー)は長崎でR・N・ウォーカー商会を設立
  • 清涼飲料工場を開業してサイダーを大量に生産。その製品名に「バンザイ」と名付けて販売を始める
  • ウォーカーの兄、ウィルソン・ウォーカーがグラバーとともに横浜でジャパン・ブルワリ・カンパニーを設立、この会社は現在のキリンビールの前身
  • 「旧ウォーカー住宅」は昔は大浦天主堂の近くに建てられていたものを1974年(昭和49)にこの地に移築された。移設されたものは本来の敷地の3割程度だった

 

ウォーカー氏が使っていた遺品などが展示されていた

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長崎地方裁判所長官舎

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祈りの泉

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だれもおらんかった

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次にやってきたのは「旧リンガー住宅」ホーム・リンガー商会を設立したイギリス人フレデリック・リンガー氏の旧邸

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【旧リンガー(弟)住宅】

  • 本名:フレデリック・リンガー氏の旧邸
  • 1864年(元治元)頃に長崎に来訪
  • 1868年(明治元)グラバー商会に勤め、ホーム・リンガー商会を設立したイギリス人
  • 製茶業、製粉、石油備蓄、発電、貿易事業などいろいろな事業を手掛ける
  • 明治元年にリンガー氏の住宅はグラバーから譲渡された借地権をもとに建てられたとみられる
  • フレデリック・リンガーが1907年に死去した後は次男のシドニー・アーサー・リンガーがここに住んだ
  • リンガー氏の建てた「ナガサキ・ホテル」世界に誇る一流のホテルだった
  • 1942年(昭和17)の太平洋戦争勃発とともにリンガー一家は母国に帰国、住宅の所有権は川南造船所となった
  • 太平洋戦争も終わりリンガー家はこの住宅に戻る
  • 1965年(昭和40) 当住宅は長崎市の所有となる
  • 1966年(昭和41)  6月11日、国の重要文化財に指定される
  • 1973年(昭和48) 老朽化した住宅の補修工事が終了、現在に至る

 

旧リンガー住宅の内部

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応接室

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園内を歩いているとこんな看板が立っていた

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見上げると数十年に1度しか開花しないという「リュウゼツラン」という中南米原産の多肉植物、なんかめちゃくちゃラッキーな気分になった

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この家族連れと一緒に旧オルト住宅に向かう

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ここが旧オルト邸、ウィリアム・オルト氏が昔住んでいた住居

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旧オルト住宅

  • 本名:ウィリアム・オルトの邸宅
  • 開国と同時に長崎にわたりオルト商会を設立、製茶業で日本のお茶を海外に広めた
  • なぜか当時の土佐藩と親交が深くオルト商会から土佐藩に数多くの船や武器を売却している
  • 大浦天主堂を設計した小山秀之進が建築したといわれている
  • 庭の噴水は日本最古といわれており当時のヨーロッパの建築家と日本人の職人さんがまったく言葉が通じない中での協働作業で建てられたと言われている
  • でも実際にオルト氏がこの邸宅に住んでいたのはたったの3年間
  • その後この建物は活水女学校の校舎や米国領事館として使われた
  • 1903年(明治36)にはおとなりのフレデリック・リンガーによって購入され、リンガー氏の長男一家がここで生活をした
  • フレデリック・リンガー氏の長男一家が太平洋戦争勃発まで住んでいたので、リンガー(兄)邸とも言われている
  • 1972年(昭和47)5月15日に国の重要文化財に指定された

 

マジでメルヘンすぎるやん

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旧オルト住宅の応接室

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ここが寝室だよ

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次に旧スチイル記念学校

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ここは華やかな西洋のドレスを着て撮影してもらえるサービスがある

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ここで衣装を借りることができる大人用から子供まで、女性用は40種類以上、借りたドレスで園内を散策することもできるのだ

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旧自由亭、実際にレストランも営業している

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【旧自由亭】

  • 江戸時代末期日の本初の西洋料理レストラン、元々は良林亭(りょうりんてい)という名前で、シェフである草野丈吉が自宅で開業したのは始まり
  • 1865年(慶応元)に自由亭という名前に改称
  • 当時の長崎には小島郷福屋、西浜町清洋亭と呼ばれる三大西洋料理店があり自由亭もその中の一つ、当時の貴賓や地元高官などに人気があった
  • 昭和49年に長崎市内からグラバー園内に移築復元されている
  • 現在の「旧自由亭」は、2階が実際に喫茶室になっている
  • 24時間かけて水で一滴ずつ抽出された薫り高い濃厚なダッチコーヒーが有名

 

 

最後に本丸の旧グラバー邸ですが.....

 

 

工事中だったウワァァ-----。゚(゚´Д`゚)゚。-----ン!!!!

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グラバー園気合い入れてまわったら確実に半日コースだよ

今度は夜に来てみたい

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

長崎くんちの舞台である「鎮西大社 諏訪神社」に行ってきたっぺ(b^_^)b

全国にたくさんある諏訪神社または○○諏訪神社という名を関する神社である。長崎にも諏訪大明神を祭る神社があるのだ。長崎市電の「諏訪神社」を降りるとその前はすでに巨大な鳥居が待ち構えているのだ

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【鎮西大社 諏訪神社の歴史】

 

このめちゃくちゃ広くて長い階段を延々と登っていくのだ

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ちなみにここには4つの鳥居があって縁結びを祈願する女性はいちばん下の「一の鳥居」から登ってくるのだ

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やっと社殿入口の前だよ、炎天下の中でもはや頭はフラフラである

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境内の中に入るとこのような立派な本殿が待ち構えているのだ

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長崎くんちの舞台】

  • 長崎くんちを知らぬものはもはや日本人にあらずというくらいの日本を代表する祭りで日本3大まつりの1つになっている。この神社の秋季大祭としてここで行われる
  • 2人の遊女が諏訪神社神前に謡曲「小舞」を奉納したことが起源とされる
  • 毎年10月7日と9日におこなわれる
  • 但しコロナで2021年も中止となっている 
  • メインは諏訪神社の奉納であるがこのさじき席を争う争奪戦がおこる

 

   いちばんいい席はなんと

 

   3万円( ゚Д゚)

 

すげえ立派な休憩所、もう夕方で締め始めていた

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祈願受付け、この神社は商売繁盛、合格祈願また恋愛成就などなんでもできてしまうオールマイティな神社なのだw

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ここに絵馬がたくさん掲げられている。ちなみに写真右のベンチで小一時間も休憩してしまった。さっき電停前のコンビニで買った1リットルの水がもう半分以下になってるよ

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長崎のプロサッカーチームといえばV・ファーレン長崎。なぜか絵馬のほとんど全部がJ1昇格祈願だったw

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休憩していたら巫女さんが笑顔で「こんにちわぁ💘」←これに弱い

 

神社の奥はこのように連続鳥居

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なんとしてでも参拝客を増やそうと神社側も名所の発掘頑張ってるんだよ

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とげ抜き狛犬 キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

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そのほか境内には「願掛け狛犬」や「カッパ狛犬」なんかいっぱい置いてある

 

 

 

帰りは鳥居をくぐりさっき通った階段を下りていく、この神社は縁結びの陰陽石が参道に埋め込まれていている

 

これが男性をあらわす男石(一の鳥居のとこ) ただの円やんw

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これが女性をあらわす女石、いや~ん(*≧∀≦)ゞ

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男は女石を、女は男石を踏んでから参拝すると良縁成就となるのだそうだよw

俺もさっきの巫女さんと仲良くなりてぇぇよ!

 

 

 

 

 

キリシタン井戸のある「本蓮寺」へ行ってきたっぺ(*^-^*)

長崎市内の「本蓮寺」という仏教寺院に行ってきた。やはり長崎はキリスト教の文化が昔から根付いていて禁教下での半ば強引ともいえる棄教や改宗があったもののやはり仏教寺院はキリスト教会や唐寺と比べて肩身の狭い思いをしていたのだ

 

西坂教会から歩いて15分くらいのところにこの本蓮寺はあるんだよ

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入り口はこんな感じ、なんか長崎市内のマンションやビルの立ち並ぶ中にある

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【本蓮寺について】

  • 元はこの地にサン・ジョアン・バウチスタ教会とサン・ラザロ病院があった。この病院は日本で最初のハンセン病の病院だった
  • サン・ジョアン・バウチスタ教会は被昇天のマリア教会、トードス・オス・サントス教会とともに長崎の三大教会といわれていた
  • 豊臣秀吉の出した教会破壊令と後の家康の禁教令によって教会はすべて取り壊された
  • 1620年(元和6) 大村本教寺住職の日恵が開山
  •  幕末期に4年間滞在し勝海舟が航海術を学んだ場所
  • 1945年(昭和20) 原爆投下により焼失するが、昭和29年に本堂が再建される

 寺の入口ににサン・ジョアン・バウチスタ教会とサン・ラザロ病院の碑がある

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二天門跡、昔はここに二天門というでかい山門があったんだけど原爆の爆風で焼失してしまった

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 信徒会館、近代的な建物だった

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勝海舟由来の地】

中学や高校で歴史の授業をまじめに聞いていたら(いなくても)勝海舟の名前はだれでも知っていると思う。勝は長崎の海軍伝習所で航海術を5年ほど学んでおりここ本蓮寺に宿泊していた。

当時、勝の下駄の鼻緒を直してくれたお久と恋仲になり一男一女をもうけるのであったが...

 

  勝海舟にはすでに妻子がいたw

 

今でいう○倫の末の出産ということだよ(;^_^A しかもこのお久という女性は当時

 

   14歳で未亡人だった( ゚Д゚)

 

今だったら確実に逮捕もんだよ。当時はそんなに珍しいことじゃなかったみたい。また勝はその後各地で5人の妾と二男三女の5人の子供を作ったww

今でいえば「すさまじいまでのクズっぷり」であるが、正妻の民子は実子を含め9人の子供たちの面倒を見たそうだよ。勝は1899年(明治32)に75年の生涯を閉じる、妻の民子はその6年後に逝去するが彼女の最後の遺言は..

 

   「頼むから勝のそばに埋めてくれるな.....」www

 

この寺にはまた「南蛮井戸」と呼ばれるキリスト教会時代に掘られた井戸が残っている。寺は当時海に面していたため海に出るための抜け穴だったという説も残っている

 

この井戸への道は通常門が閉められているので見たい方は事前にお寺に予約しておこう

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長崎中華街のとなりにある「唐人屋敷跡」訪問記

長崎市新地から歩いてすぐのところにある唐人屋敷跡に行ってきた。唐人屋敷跡といってももはや当時の面影を残すものはほとんどなく、修復された遺構が数か所存在するだけの場所である

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【唐人屋敷跡とは】

  • 幕府が作った日本にやってきた唐人たちを収容する施設
  • 禁教下ではキリスト教徒ではない中国人は長崎市内自由に住むことが可能だった
  • 中国人による密貿易が増加するに従い長崎奉行所では中国人の居住地区も制限せざるを得なくなった
  • 唐人屋敷の建設費は幕府から借金することで賄われた
  • 当時の居留地域は約9,400坪で、2,000人程度の収容能力があった
  • 1784年の長崎大火により唐人屋敷はほぼ全焼、以後唐人自ら住居などを建築することが認められた
  • 中国人はとなりの現長崎市新地町に中華街を形成し現在の長崎新地中華街となる
  • 1859年の開国によって唐人屋敷は廃屋化、1870年に焼失
  • 現在は四堂のみが修復改築されている
  • 日本人で唐人屋敷に出入りを許されていたのは遊女と僧侶だけだった

 

 ではこの唐人屋敷跡に散在する4つの祠に行ってみよう。これらは互いに近くにあるので全部徒歩でまわることができるのだ

 

こんな細い道を歩いていく

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【土神堂(どじんどう)】

唐人屋敷の中でもっとも古いお堂、中国では土地や家の守護神とされ豊作の恵みをもたらしてくれる「福徳正神」と呼ばれる神さまを祭っているところ。この土神堂は1691年に唐人の船主たちによって建立された。現在の建物は1977年に復元されたもの

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土神堂(どじんどう)の内部

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【福建会館】

名前のとおり福建省出身の唐人が建てた会館で特に長崎市の福建会館は1868年に「はちびん会館」として創建された。その後1897年に福建会館に改名、原爆によって今残っている建物は正門と天后堂だけ。天后堂は2018年に再建された

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中庭にはなぜか孫文銅像が建っている

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 媽祖(まそ)、ランタン祭りの時にはこの媽祖神を興福寺まで運ぶ

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【天后堂】

航海安全を守る女神、天后聖母(媽祖)が祀られている。当時の唐船には天后聖母を祀っており日本に着いたら唐人屋敷の天后堂へ運んでいた。長崎ランタンフェスティバルでは「媽祖行列」といわれるパレードでこの様子を再現している。

この建物は1736年に南京出身の中国人によって建てられ、その後1906年に全国の華僑の寄付によって再建築

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これが「天后堂」なのか、もはやNHKの人形劇に出てくるキャラやん

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 またここには関帝も祀られており別名「関帝堂」とも呼ばれているのだ

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観音堂

福建出身の唐船主らにより建てられたお堂で堂内には千手観音菩薩と商売繁盛の神さまといわれている関帝が祀られている。現在のお堂は1917年(大正6年)に改築されたもの

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おそらく左が関帝で右が千手観音菩薩なのだろう

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以上唐人屋敷跡にある4つのお堂を紹介してきたが、中国の旧正月(春節)におこなわれる有名な「ランタンフェスティバル」のときには、土神堂、天后堂、観音堂、福建会館の4か所を赤いろうそくを供えながら歩く「四堂巡り」がおこなわれている

 

もはやランタンフェスティバルのためにあるといってもいいくらいの唐人屋敷跡であるが全部まわっても1時間で終わるので散歩がてら巡ってみるのもいいかも
 

 

 

 

 

長崎の東山手にある「東山手洋風住宅群」に行ってきたっぺ!(^^)!

長崎で有名なオランダ坂、ここをずっと登っていくと西洋風な住居群が建ち並んでいるのが見える。なんか異国文化あふれる長崎を象徴するかのような佇まいだよ

 

ここは「東山手洋風住宅群」と言われていて明治中期頃に居留地時代に社宅又は賃貸住宅として建造されたこといわれている

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ここは東山手のこんな狭い路地の中にかなり無理やり建てられている。駐車場はないので公共交通機関を使って来るしかないのだ

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入場料は高校生以上は100円、さっそく入ってみよう

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東山手洋風住宅群は全部で7棟そのうち3棟を古写真資料館、1棟を埋蔵資料館にしている。長崎の有名な写真家の元祖である上野彦馬が当時使っていたカメラや古写真147枚が展示されているんだよ

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上野彦馬」についての詳細は過去記事参照してください

neet-tabi.hatenablog.com

 

建物の間の移動はこんな細い路地を歩いていくのだ

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埋蔵資料館のほうは出土した昔の遺物がたくさん展示されている

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ここがワールドフーズレストラン東山手「地球館」、ここは多国籍料理のレストランで行った時間は店員だけが食事してましたw

最初は何も知らなかったのでなぜ韓国とタイの国旗が掲げられているのか聞いたら、本日のメニューが韓国料理とタイ料理だからとのこと

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長崎市民から「あか寺」として愛されている「興福寺」へ参ってみたっぺ(^▽^)/

長崎市内の寺町通りにある「興福寺」に行ってきた。長崎には「長崎三福寺』」と言われてる寺院(唐寺)があり興福寺はその中でも特に有名な寺らしいんだよ

 

【山門】

すげぇぇえでかい山門、寺町通りには数多くの寺が並んでいるがこの寺のラスボス感はハンパないんだよ。ちなみにこの山門は長崎でいちばん大きく承応3年(1654)隠元和尚の長崎滞在中に集められた莫大なお布施で建てられたそうだよ

 

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現在の山門は、元禄3年(1690)に再建された。なお原爆でもかなりの損傷をおったが修復され現在に至る

 

興福寺とは】

  • 長崎の寺社の中でも指折りの由緒と格を誇る
  • 興福寺の創建は1620年(元和6年)
  • 中国のお坊様・真円によって開設
  • 崇福寺・福済寺と併せて、『長崎三福寺』を形成
  • 朱色の山門により地元の人からは「あか寺」とも呼ばれている
  • この寺の建立目的は当時長崎に居留していた唐人海上の安全祈願と故人の冥福を祈るため
  • 当時の日本に来る中国人の中にはキリスト教徒がおりその証明をおこなうため
  • 第2代住職の黙子如定は眼鏡橋を架設したことで有名
  • 第3代の逸然は長崎漢画の祖として有名
  • なお逸然は当時中国でも高僧の評判が高かった隠元を招くことに成功
  • 全国から多くの僧がここへ教えを受けに来た
  • この寺の歴史でいちばん有名なのが隠元和尚、「インゲン豆」の語源となった
  • 1663年の長崎大火で興福寺は全焼した
  • 境内には多数の国指定重要文化財がある
  • 現在の松尾法道住職まで、現在32代でこの寺を継いでいる

 

何を隠そうこの寺はインゲン豆と木魚で有名な隠元和尚と深く由来のあるお寺なのだ。

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山門の前のネコちゃん

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訪問した時間は私の他にボッチ旅行客1名、この外国人と一緒に境内をまわることになるのだよ。ちなみにあとで撮った写真をチェックするとほとんど全部こいつが写ってるんだよ( ノД`)シクシク… ブログに掲載されてる写真はできるだけこいつが写ってないのを選んで載せています

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入場料は300円、ここはほかの施設みたいに手の消毒もうるさくなく来場者カードを書かされることもなかったよ 

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大雄宝殿(だいゆうほうでん/本堂) 

国指定重要文化財

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  • お釈迦様(大雄)を本尊として祀っている
  • 現存する長崎の4つの唐寺では全て本堂を大雄宝殿という
  • 三官 大帝の神像は唐からもたらされたもので生き身として深く信仰されている
  • 御神体の 中から雄鶏の足音が聞こえると言い伝えられている。
  • この建物は寛永9年(1632)第2代住職・黙子如定禅師が建立した
  • 大火や暴風で大破したため再建を繰り返した
  • 現在の建物は明治16年(1865)に再建したもの
  • 昭和16年に改修工事を行った直後に原爆の爆風を受け背後の山に向かって倒れかかる格好となったため、立て起こしのみを行ない現在に至っている
  • 明治時代の建造物でありながら戦前は国宝に指定されていた

 

ちなみに本堂前の庭はかなり広く、大雄宝殿の中でもコンサートや各種イベントもおこなわれているらしいよ、特に大雄宝殿の内部は二層吹き抜けの大空間のためとても音響効果が良いらしい。

 

宗教施設なんだか本殿の中のイベントはやばいっしょw

 

 

 

 


媽姐(祖)堂(まそどう) 

県指定有形文化財

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  • 航海の神、媽祖様が祀られている。
  • 媽祖信仰は中国宋代に福建省に起こった土俗的信仰。
  • 元の時代には江南から北京へ糧米を運ぶ全ての船舶に祀られていた
  • 長崎へ来航する唐船にも必ず「媽祖」が祀られ、停泊中は船から揚げて唐寺の媽祖堂に安置した。
  • これを「菩薩(ぼさ)揚げ」という
  • 賑やかに隊列を組んで納めたそう

 

 


鐘鼓楼(しょうころう) 

県指定有形文化財

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  • 寛文3年(1663)の市中大火のあと元禄4年(1691)に五代悦峰禅師が再興した
  • 日本人棟梁により享保15年(1730)重修、
  • その後もたびたび修理が加えられた興福寺の鐘鼓楼。
  • 現在ここには、原爆で吹き飛ばされた瓦などが保管展示されている。
  • 梵鐘は戦時中に供出され現在興福寺梵鐘はない。

 

 

 

三江会所門(さんこうかいしょもん) 

県指定有形文化財

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  • 三江とは揚子江下流地方の江南、浙江、江西のこと
  • かつての興福寺はこの地方出身者にとって、菩提寺
  • 原爆により大破し門だけが遺存している。

 

すげぇ年期のはいった火災報知器、本当に稼働するんかなぁ

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「豚返しの敷居」ってのがあって、これは豚が門の中に入ってこないようにするため敷居がたかくなってるそうだよ、こんな低い敷居なんて豚楽勝で入ってこれるでしょw

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旧唐人屋敷門(きゅうとうじんやしきもん) 

国指定重要文化財長崎市所有)

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  • 当時市内に散宿していた唐船主以下の中国人は、民宿を禁じられていた
  • 全員、十善寺郷(現在の館内町)の唐人屋敷に収容された。
  • 日本人で唐人屋敷に出入りを許されていたのは遊女と僧侶だけだった
  • 現在は問だけが残されている

 

 

中島聖堂遺構大学門(なかしませいどういこうだいがくもん) 

県指定有形文化財長崎市所有)

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  • 東京の湯島聖堂佐賀県の多久聖堂と共に日本三聖堂のひとつ
  • 当時は儒学の学問所で当初立山書院と称した
  • 徳元年(1711) 中島川河畔に移転し再興。その後は中島聖堂と呼ばれた

 

 

 


魚板(鰍魚)(ぎょばん/けつぎょ)

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  • 中国の代表的な魚である鰍魚(けつぎょ)
  • お坊さん達に飯時を告げるために叩いた木彫の魚
  • 興福寺のこの魚板は日本一美しいと定評がある
  • 口にふくむ玉は欲望。これを叩くことによって、欲望を吐き出させるという意味
  • 木魚の原型ともいわれている
  • 現在は老朽化のため叩かれていない

 

ここで抹茶をいただくことができる、内部には檀家さんと寺の所有書5000冊を集めた図書室もあるらしい

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奥に犬がおったよ。目があって吠えられそうになった

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この寺は長崎市内の寺町通り沿いにある、この寺よりも実は周囲に立ち並んでいる寺に疑問。この通りはそんなに多くないのになぜかここの道路沿いにだけ


2社14寺がほぼ一列にが立ち並ぶ( ゚Д゚)

 

なぜこれだけ多くの寺がほぼ一列に並んでいるのか? この通りを訪れた人はかならず疑問に思うことだと思う。由来を知ってる人だれかいませんか?