長崎県民ならだれでも知ってる「永井隆」博士の記念館と如己堂(にょこどう)へ行ってきた
私お恥ずかしながらまったく教養がないもので....
この年齢になるまで「永井隆」という人物知りませんでした(/ω\)
今回の浦上天主堂で出会った2名の現地ガイドさんとの会話で初めて出てきた永井博士
ガイドさんが言うには「長崎県民なら知らない人はいないわよ~」とのことで興味を持ってから長崎の被爆遺構関連の施設を訪れていくと、どこにも出てくる出てくる永井隆、永井隆、永井隆.......長崎のかたスミマセンデシタ(´;ω;`)ウゥゥ
永井隆という人をめちゃくちゃ簡単に説明すると...
医者であり作家でありクリスチャンであり被爆者
いちおう長崎では永井博士で通ってるらしい
ということで大浦天主堂行った帰りに歩いて行ってみた。まずは「如己堂」(にょこどう)、永井博士が被爆して療養していた部屋、なおここで病気と闘いながらも執筆活動を続けていたのだ
如己堂の意味は「己の如く隣人を愛せよ」とのところからこの名前がつけられている。さすがクリスチャンだけあって聖書の言葉引用してるんやね
如己堂の内部はこんな感じ。いろんなところで永井先生が当時この部屋で執筆されている写真が掲げられていたので訪問前にすでにある程度の事前学習はできていた
この部屋で執筆されて出てきた著作、「ロザリオの鎖」「この子を残して」「生命(せいめい)の河」「長崎の鐘」などは当時の文学界に大きい影響を与えたんだよ
ちなみに「この子を残して」は1983年に映画化され加藤剛(永井役)、十朱幸代(奥さん役)が演じた。
となりにある「長崎市永井隆記念館」に入ってみることにする。実は永井隆先生の記念館というのは島根県にもあるらしい。長崎市と冒頭に書いてあるのはそのためだと思う
いちおう入場料として100円とられるのだ
館内はそんなに広くなく永井先生の生い立ちから出版物にいたるまでのすべてが展示されておった。
永井隆先生の経歴をざっと挙げると
- 1908年(明治41年)島根県松江市に生まれる
- 長崎医科大(現・長崎大学医学部)を卒業
- 放射線および結核の治療と研究に従事
- 研究の時の放射線が原因で慢性骨髄性白血病を発症、余命3年を宣告される
- 原爆投下当日大学病院内で被爆、一命は取り留めたものの右側頭動脈切断の重傷を負う
- (奥さまの緑さんは自宅で死亡、2人の子供は助かる)
- 一時期は危篤状態になるものの自ら被爆者の治療をおこない続ける
- 長崎医大の教授に昇格
- 長崎駅で倒れ書斎(現在の如己堂)で執筆活動を開始
- 1951年5月1日 長崎医大で死去 (享年43歳)
永井先生の家系は元々クリスチャンではなかったらしいんだけど、妻である緑さんと結婚し長崎で殉教した日本二十六聖人の中のパウロ三木にちなんで、洗礼名をパウロとして受洗
ヘレンケラーから送られてきた手紙、ヘレンケラーの突然の見舞いは永井先生にとって感動的だったそうだよ
如己堂での執筆活動のようす。もはや腕は痩せ細っている
亡くなられたあとの解剖で脾臓は通常の35倍、肝臓は5倍に膨れ上がっていた
昭和26年に亡くならたんだけど葬儀は浦上天主堂で長崎市による公葬となったそうだ。当時の葬式に参加した長崎市民はなんと
2万人( ゚Д゚)
その葬儀に参加していた人の中にはなんと......
美輪明宏もおったww
長男の誠一さんの中学の同級生だったそうです。
同年12月長崎市名誉市民第1号となるのだ (ミワサンワイツダロウ?)
これも存命中にいただいたものか? 吉田茂って「ばか野郎~!」っていったやつだよね
ビデオ上映コーナーでは酷暑の中の連日の旅と館内のエアコンの涼しさで爆睡してしまった
ちなみにここの館長を長年務められていた長男の誠一さんと茅乃さんは残念なことにそれぞれ平成13年、20年に亡くなられている。もっと早く来ればよかったな