長崎市内2大カトリックのひとつ「浦上天主堂」に行ってきたっぺ(*'▽')
市電の平和公園駅から徒歩で緩い坂をずっと登っていくとやっと見えてきた浦上天主堂、市電の駅からかなり離れているよ、もはや炎天下の中で頭がボーっとしとる
この教会は長い期間続いた禁教令がやっと解かれたあとに浦上に住んでいた信徒たちによって作られた教会なのだ。先ほど行った旧城山小学校の写真にも被爆直後の浦上天主堂の写真が飾ってあったけどっここはかなりの高台にあるんやね
中学校の卒業旅行で長崎に来たときは確か現地ツアー旅行だったはず。絶対にここにも来てるはずなんだけどもはや20年以上前のことなので記憶がまったくないのだ
長崎の教会に限らず教会を訪れる人たち(特にノンクリの方たちね)に対する注意事項
- 内陣の立ち入りはご法度 (聖なる神がおられる場所なので神父や牧師のみが入れる)
- 脱帽、私語禁止、飲食やたばこ禁止
- 礼拝(ミサ)の時間は立ち入り禁止
- 服装は肌の露出が少ないもの
- あとは写真やビデオ撮影は禁止しているところが多い
入口のマリア像
幕末に起こった「浦上四番崩れ」という浦上村の隠れキリシタンの一斉摘発があって多くの人々が長崎奉行から拷問や死罪を受けた。これは明治維新のあとも続いて昔ほどではないものの多くの人たちが全国各地へ流罪となった
そのころになると開国していたので諸外国からの抗議をうけ政府はやっと明治6年(1873年)に禁教令を撤廃、キリスト教の布教と信仰の自由が認められたのだ
自由に教会に行って自由にミサや祈りが可能になってまだ150年しかたっていないんだよ
浦上村に帰還した当時の村人はわずかな私財を投げうってこの浦上天主堂を建立した
ちなみに「教会」と「天主堂」の違いわかる人いますか?
この教会の建立の歴史はけっこう長くて当時のフレノ神父の設計により着工開始、その後のラゲ神父が工事を引き継いだものの未完成のままとりあえず大正3(1914)年に献堂式を迎えた。さらに後任のヒューゼ神父が塔の部分と鐘の部分を完成させ大正14(1925)年についに完成、着工から完成までに約30年かかったのだ
東洋一と呼ばれるほど最高に美しい教会堂だったのだ
教会内部は入れたが写真撮影禁止なので写真は無い。警備員と思しき兄ちゃん(たぶん信者のかた)が座っていて、しかも教会内の椅子には信者しか入れないようになっていた
祭壇の前まで行かなかったけど(行けるような雰囲気じゃなかった)ここには聖パウロ三木、聖ヨハネ宗庵、聖ヤコブ喜斉などの殉教者たちの遺骨が納められている。
ちなみに被爆マリア像は熱線で見るも無残な状況
教会の敷地内に資料館があってこちらに入ってみることにする
原爆が投下された直後の浦上天主堂。もはや教会の建物は原形をとどめないほど破壊されている
浦上天主堂は爆心地から約500メートル、主任司祭であるラファエル西田三郎をはじめ当時浦上教区の信者1万2000人のうち8500人が亡くなっている。
敬虔な多くのカトリック信者たちが亡くなった。神はこの事実をどのようにご覧になっていたのだろうか? 神の恵み、救い、哀れみは彼らにあったのだろうか
当日はこの教会の主任司祭である西田三郎師、助祭の祭玉屋房吉師が「告解の秘跡(ゆるしの秘跡)」の準備をおこなっていた。原爆によりこの2人の神父と他20数名の信徒たちは即死したと思われている
これらの祭具は当時教会内に置かれていたものまたは大祭壇の東側に設けられていた祭服祭器室(香部屋)にあったものと思われている
天使象および天使象の頭部
原爆によって崩れ落ちた当時の鐘楼がそのまま置かれている
1981年2月に教皇ヨハネ・パウロ二世が初めて日本を訪問しここ浦上天主堂でもミサがおこなわれた。ヨハネ・パウロ二世が来日した時は子供のころの記憶にはっきりと残っているよ。