社内ニートが巡る全国旅日記

今にも会社クビになりそうな超ド底辺社畜ニートがいろんなとこ巡ってます

日本人なら必ず行ってみるべし「長崎原爆資料館」に行ってきたっぺ

注意:この記事にはグロい写真が載せられています。原爆の悲惨な状況を知ってもらいたいためあえてモザイクなどは入れていません。以上ご了承の上お読みください

 

長崎に来たらはずせないスポットは長崎原爆資料館だ。中学の卒業旅行でここに来たはずなのだが当然当時の思い出なんてかけらも残っていない。数十年の時を経てもう一度長崎原爆資料館を訪れてみることにする

 

もう歩き疲れて足はガタガタだよ( ノД`)シクシク… 今日はもう市電で移動することにする。1日券を500円で購入したよ。4回乗れば元が取れる計算だ

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長崎原爆資料館前で下車して歩くとすぐだよ

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近代的な建物がお出迎え。昔は長崎国際文化会館の原爆資料センターだったところを1996年に建て替え現在に至る

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入り口では職員のおじさんが愛想よく出迎えてくれた。やはりコロナ下なのか観光客はほとんどいなかったよ

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この正面入り口は地下一階で展示室は地下2階になっているのだ

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このらせん状のスロープを下りていく。床に三角のマークが所々にあるのがあるがこれは8月の星座しし座を表している

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体温チェック、消毒。係員が見張っていてここも厳重な防疫体制が整っていた

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館内の対応言語は英語、中国語、韓国語、ロシア語、フランス語の五か国語残念ながらタイ語はありませんでした

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そして連絡先の記入と必要最低限とはいえもはや個人情報の流出はやむを得ないとあきらめているよ

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ここの入館料は大人200円と非常に良心的である。ちなみにダメもとで聞いてみたLine Pay使えましたw

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展示室入り口に柱時計が置かれている、11:02で止まったままの時計だよ原子爆弾が落とされるこの時間まで長崎の人々の当たり前の生活があり当たり前の時間が流れていたのだ。館内はこの時計のコツコツという音がずっと響いていたのが印象的だった

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ここは教会や学校、お店や役場、鳥居などの写真など原子爆弾が落ちる前の長崎の写真が飾られている

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長崎市内の山と山の間谷間の中心にある松山町上空500メートルのところで原子爆弾は爆発した。爆発後中心温度が数百万度という火の玉が発生しその火の玉は水蒸気の塊となり大きなキノコ雲へと変わっていったのだ

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館内をさらに入っていくと原爆投下直後の長崎の町が再現されている

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ブレてしまった写真でスマンm(__)m これは爆心地から800 M の場所にあった長崎県立平方中学校の給水タンク。足元をよく見ると熱によって熱が曲がっているのが分かる

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同じように高熱によって鉄が曲がってしまった火の見櫓がこちらにありますこれは今の資料館の駐車場の場所にあったもの

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被爆した階段がありますこれ三菱製鋼所事務所ビルの外階段

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館内のプロジェクション映像、原爆投下までの経過が分かる

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要約すると.....

  • 原子爆弾は194た2年からマンハッタン計画と呼ばれるプロジェクトで開発された
  • 世界最高の水準を誇っていたドイツも1939年から開発を始めましたが1944年には断念し1945年5月7日無条件降伏した
  • 日本でも仁科博士を中心に1943年5月から原子爆弾の研究が開始されましたが完成することはなかった
  • アメリカは1945年4月27日、日本の17都市が原子爆弾投下目標とし選定された
  • 同5月10日には京都、広島、横浜、小倉の主要都市が投下目標として絞られた(この時は長崎は入っていなかった)
  • 長崎が投下目標として加えられたのは7月24日、原爆が落とされる半月前
  • 7月16日アメリカのニューメキシコ州アラモゴード砂漠で人類初の原子爆弾実験が成功
  • 8月6日午前8時15分 広島へ原子爆弾が投下される
  • 3日後の9日正午に長崎に原子爆弾が投下

 

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当日9日早朝B29爆撃機ボックスカーが原子爆弾を投下するために福岡県小倉へ向かったがトラブルが重なり予定より1時間近く到着時間が遅くなり小倉上空に到着した時には雲に阻まれて原爆を投下することができなかった。急遽予定を変更し第2目標であった長崎に原子爆弾を投下炸裂したのはお昼前11時2分

 

当初の投下目標地点は中島川にかかる眼鏡橋下流にある場所でここは長崎の中心部でもあり都市機能が完全に失われる場所、しかしながら長崎の上空に到着したときは雲によって目標地点を確認でず爆撃機の燃料も残り少なくなり雲の切れ間から北部の工場地帯を発見し原子爆弾ファットマンが投下された

 

これが長崎に落とされたファットマンの実大模型、長さ3.25m 直径1.25m 重さは4.5トン。関係者の証言などから全体的に黄色をしており接合部分は気密性を高めるために黒く塗装をされていたそうだよ

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ファットマンは高度9000メートルのところから落とされ地上500メートルのところで炸裂。B29から投下された原爆は時限信管、気圧信管、近接信管、レーダー信管など4つもの信管が備えられていた。当時原爆技術はアメリカの国家最重要機密とされていたのでどのような不測の事態があっても必ず爆発させる必要があったのだ

 

B29から投下された原爆は白いパラシュートがつけられており高度4000メートルのあたりで浮遊するように設計されていた。地上にいた人々はB29の離脱するエンジン音で空を見上げると白いパラシュートが目に入りその後で原子爆弾が炸裂した

 

 

ファットマンの内部構造 中心にあるのがプルトニウムでなんと直径はたったの

 

8センチ( ゚Д゚)

 

手のひらに乗るやんか。。重さは6キロだそうだよ。このたった8センチの7万人の尊い命を奪ったのだ。長崎原爆はインプロージョン方式と言ってプルトニウムの周囲にある爆薬の爆発により中心に集まる力を利用して核分裂を起こしている。

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熱線を受けた神社の玉石、爆心地から約800メートル離れたところの神社の境内に敷き詰められていた石

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 焦げた板壁に残った物干しざおの影、爆心地より北へ2キロの民家の板壁。熱線の直射を受けて焦げた板壁にかけてあった物干しざおが影となって白く浮き上がって見える

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焦げた板壁に残った木の葉の影、爆心地より約1.4キロ民家の板壁。熱線が直接当たったところは黒く炭化し木の葉の影になっていたところは焦げていない

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原爆の熱線による威力のすざましが実感できる展示物が所狭しと展示されている

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意外だったのは観光気分でここに来ている人は一人もおらんかったんよ。みんな展示物や資料に熱心に目を通しておった。なんかみんな真面目な修学旅行生って感じだったよ

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原爆資料館あるあるですが溶けて固まったガラス瓶 爆心地から600メートルの商店跡から発見されたもの。地上500メートルに人工太陽できるんだからこうなっちまうんだよ

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当時14歳だった堤郷子さんの弁当箱、副食入れの底には2年3組ツツミサトコの文字が刻まれてる。このお弁当を作ってくれたのはお母さんだったのだろうか?今日も学校で同級生と一緒に食べるはずだった楽しい時間は彼女には来なかったのである

 

マジで涙が止まんねぇ(( ;∀;)

 

このお弁当箱を見つけたのが父親だったそうです

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 焼け残ったズボンの一部、当時長崎医科大学1年生であった調弘治さんが履いていたズボンの一部、当日従兄弟から譲り受けたこのズボンを履いて解剖室で被爆した。遺体は火災により白骨化したが焼け残ったズボンの一部に従兄弟の苗字である「山本」の文字が残っていたので身元が確認できた

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銭座国民学校の階段、これは原爆の爆風の威力がよくわかる。まず原子爆弾が炸裂すると衝撃波による爆風を伴って様々なものを破壊する。爆心地での風速は秒速440m、それは頭の上に10トンもの重りが落ちてくるくらいの衝撃があった。被害は半径約40km にもおよんだ

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爆風により階段にガラスの破片が食い込んでいる

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タイルにこびりついたガラス

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溶けたガラス瓶、ガラスが沸騰するってイメージがよくわかないと思う。摂氏100万℃では個体もあっという間に蒸発するのである

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作業服と戦闘帽

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調来助さんから寄贈された当時のワイシャツ。爆心地より北へ1.3キロほどはなれた三菱長崎兵器工場で働いていたときに被爆した際に着ていたもの

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左から大人の上着、幼児の服、女性の上着

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熱線で焼かれた生徒、この子にいったい何の罪があったのだろうか

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黒こげになった少年。2016年なんとこの写真の人物の身元が判明したそうだよ。長崎市岡町の当時中学生の13歳谷崎昭治さんとのこと。妹さんたちが原爆写真展でこの写真を見た瞬間に兄だと分かったそうだ

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浦上駅のホームの母子の遺体 これは見ていて非常に胸につき刺さるつらい写真だよ

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黒こげの遺体の脇で呆然と立ちつくす少女、彼女の眼にはいったい何が見えていたのだろうか

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爆心地の上空500メートルに数百万℃の高温と数十万気圧の火球ができたら地表面の温度は4000℃近くにもなる。鉄が溶け始める温度は1500℃だから人間の柔らかい肉なんてどうなるか容易に想像できる

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大人ですら目をそむけたくなるようなケロイドの患者の写真をしげしげと見つめる小学生、何を思うのか?

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11時2分で止まった時計、この記憶は日本人だけでなく全世界の人々が記憶にとどめておくべき歴史なんだよ

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この服は被爆者のひとりである江頭千代子さんから寄贈されたもの。当時城山国民学校の先生だった江頭千代子さんは1歳2ヶ月の娘を背負って出勤し11時前眠った子供を保健室に行かせようとした瞬間原爆が炸裂、背後から窓ガラスの破片が飛んできて背中に突き刺さった。娘は母親に守られ無事だったそうです

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このように凄まじい爆風の中には粉々になったガラスや木片を含んでいる。今でも体の中にガラスの破片が残っている人もいるそうだよ

 

 

これは当時長崎医科大学学長の角尾先生のズボン。大学病院で診察中に被爆し飛んできたガラスで大怪我をするが致命的な傷ではないと思われた。しかしその後に容態が悪化し2週間後に亡くなった。角尾先生は長崎で被爆する2日前東京出張から帰ってくる途中原爆が落ちた広島市内を歩いたので広島でも被爆していたのだ

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ちなみに角尾先生のように広島と長崎で被爆した人を二重被爆者と呼び少なくとも165人はいるそうだよ

 

 

着物を着た二人の少女が火葬されているこの絵は当時14歳の松添博さんが実際に見た風景を29年後に思い出し書いたもの。すごいことにこの絵が資料館に展示されることによって二人の少女の身元がわかったのだ。 手前の少女の母親が追悼のため長崎にお地蔵さんを建てたいと願い多くの方の助けを得て原爆資料館屋上庭園にある未来を生きる子らの像が作られた

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原子爆弾の厄介なものの一つに放射線がある。特にガンマ線中性子線というやつはコンクリートまで突き抜けるほど強い放射線で今もなお被爆者を苦しめている

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これは原爆投下時の長崎医科大の医療器具

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長崎には長崎医科大学とその附属病院があり日頃から空襲時の医療救護体制の準備は整っていた。しかしこれらの施設は爆心地から1km以内の近距離にあり、医師や看護婦、施設などは壊滅的な被害を受け応急処置さえ十分におこなえなかった

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これらの医療器具と担架、治療台は爆心地から3.8 km ほど離れたところの軍委託のもので被爆20分後から殺到する重傷者を見かねて自宅を臨時救護所として開放した際に使われたもの

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被爆した人の中には当然ながら多くの外国人も含まれていた。教会の神父や中国人など多くの外国人が元々長崎に住んでいた

戦争末期になると当時日本が植民地支配していた朝鮮半島や占領地域となった中国からの労働者、南方の戦場で日本軍の捕虜となり国内の収容所にいた連合国の兵士などが被爆したのだ。

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このコーナーは太平洋戦争以降も増え続けていった核実験と核兵器の歴史である。人間から罪という性質が消えないかぎり核兵器廃絶は夢物語なのか?

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この原爆資料館が特徴的なのはただ戦争や原爆の悲惨さを伝えるだけではなく、その歴史的事実や当時の各国の思惑、そして未来に向けてのメッセージを第三者目線で俯瞰的に考察してるところにあると思うんだよ

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記録映画上映のコーナーがあった。家族連れもカップルもみんな真剣なまなざしで見ておったよ

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そして最後にこの施設に重要な欠陥について一言

トイレがない(;'∀')

 

チケットゲートの外にしかトイレがないので一旦入場すると入口か出口からかでなければならないのだ

 

大量の折り鶴、全国の小中高の修学旅行ではこういったところを1回は訪問させること必須にすべきと文部科学省に訴えたい

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ハワイに行って何になる? 東京ディズニーランドに行って何の意味がある?

(そんなとこは社会人なって勝手に行けばいいのだよ)

 

 

とにかく核兵器のない平和な日がいつか来ることを祈りたい