原城跡に行く前に必ずここで予習しておくべし「有馬キリシタン博物館」へ行ってきたっぺ(*^-^*)
有馬キリシタン遺産記念館に行ってきた。ここは島原の遺産、特にキリスト教の伝来から繁栄の時代を示す日野江城跡と島原・天草一揆の舞台となった原城の歴史をガイダンスする記念館なんよ。
まずはアクセスなんだけど公共交通機関で来館するのはかなりしんどいと思う。路線バスで行くと最寄のバス停から20分以上は歩かなければならない
ここは入場料、一般300円徴収される
この施設は中央の吹き抜けを境に2つのパートに分かれている。向かって左側が展示室1で右が展示室2だ
ビデオ上映コーナー「南島原に栄たキリシタン文化」、行った当日は俺しかいなかったのでめちゃくちゃ寂しかったよ
いろんな島原やキリシタン、一揆に関する資料が大量に展示されている。地元の住民の「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録への執念を感じさせる施設
【有馬晴信とはどのような人物だったか】
この博物館の展示物でもたくさん出てくる「有馬晴信」「小西行長」、九州の戦国大名数あれど小西行長、大友宗麟などキリシタン大名の代表格的人物である。信長の野望のゲームでも設定スペックはかなり高く、戦闘力は150以上、智謀や魅力、政治といったパラメーターも高かかったのでかなり世間からも評価されている大名であろう。(ただしゲーム開始時の時代設定が悪いためすぐに寿命で死んでしまうのだw)
---沖田畷での龍造寺軍撃破---
- 島津 vs 竜造寺の最大の決戦、島津の名声ばかり聞こえるこの戦いだが一応有馬晴信も参加していた。有馬・島津連合軍6千で3万の竜造寺軍を破る
- この戦いの勝利で浦上村をイエズス会に寄進しキリスト教の布教が進んで行く
- ともに戦った島津であったが彼らは純粋に古来の仏教を信仰していたので晴信と軋轢が生じる。
- このことが原因でその後の豊臣秀吉の九州征伐のときには島津側につかず、同じキリシタン大名であった肥後の小西行長側に加勢する
- 島津氏が降伏し九州平定がなり晴信も行長も所領は安堵、イエズス会の活動はさらに大きくなっていく
- 九州平定後の1587年に秀吉はキリスト教禁教令を出すが晴信は引き続き領内の宣教師や信徒たちを保護する
- 朝鮮出兵から帰還後、晴信はおよそ5年をかけて原城を建てる
- 豊臣秀吉の死後に徳川家康が政権を握ると家康の命令で晴信がポルトガル船を撃沈、以後イエズス会との関係が悪化
- 同じキリシタンであった岡本大八が晴信から多額の金品を横領、それが発覚し本人は火あぶりとなり晴信も甲斐の国に流罪、その後処刑された
【有馬直純でキリシタン迫害へと一転】
鬱になっていくww
- 「家康さん。。もうダメだわ!引っ越しさせて」との願いが聞き入れられ直純は日向に転封
【そしてついにラスボ登場!松倉重政】
- 直純が「もうやってらんねぇよ!」っでこの地にやってきたのは「松倉重政」居城を日野江城とする
- さっそく重政は島原に7年かけて新しい城を築城(島原城)、その後一国一城令にならって原城と日野江城は廃城となる
しかもこの重政は
めちゃくちゃ金遣いが荒かった(´;ω;`)ウゥゥ
「おまえの弾圧ぬるくねぇ?」ってプレッシャーかかってからさらに重政の弾圧はエスカレートしていくのだ。
手首切り落としなんて拷問やりたい放題、しかもキリシタンではない者であっても年貢払えない領民に対しては雲仙地獄で熱湯ぶっかけたりと最悪の領主となった。
【松倉勝家が領主にそして領民たちついにキレる!】
干ばつと飢饉が農民を襲う(☍﹏⁰)。
- 「まじでもうあいつ許せねぇ!」年貢払いきれなかった口之津の庄屋の妊婦が代官に殺されたのをきっかけに島原半島と天草の農民たちは立ち上がる。総大将はあの天草四郎だ。そして島原・天草一揆へ広がっていくのである (続きは原城跡訪問の記事に記載)
ここからは島原・天草一揆のコーナー、天草四郎こんなに美男子じゃねえだろw
島原・天草一揆の舞台となった原城、 数多くの人骨の出土品が出る
原城跡で発掘された砲弾
火縄銃の銃弾
十字架
帰る間際になって家族連れが1組入ってきた。この博物館は相当に気合が入って作られている。近くに原城、日野江城、その他キリシタン墓地などがあり南島原の史跡をめぐるつもりならまずこの博物館で事前学習しておくのが理想だろう
でもロケーションだけはもっと交通の便のいいとこに作れなかったんかな?