社内ニートが巡る全国旅日記

今にも会社クビになりそうな超ド底辺社畜ニートがいろんなとこ巡ってます

島原・天草一向一揆の激戦の地「原城跡」に行ってきたっぺ

島原・天草一向一揆の舞台となった原城跡へやっとたどり着いた。ここは島原半島のほぼ先端付近、南島原市にあってめちゃくちゃ遠かった。

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原城跡内を車でずっと走っていったんだがどこも閉鎖されていて停めるとこがないやん

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なくて少し離れたここに車を停めた

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ここが昔の二の丸跡、一揆勢の夜襲や幕府軍の総攻撃などの舞台になった

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本当にここはのどかな田園風景が広がっていて風光明媚なとこだよ、400年前にここで15万人もの人が戦ったとは想像しにくい

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ここが本丸跡、私の他には数組の家族連れが訪問していた

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ホネカミ地蔵、鎮圧後に城内に残されていた遺骨を敵味方区別なく集めここに葬った

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【島原・天草一向一揆のはじまり】

  • キリシタンの迫害に加えて悪天候による農作物の不良、そして飢饉が発生。当時の領主「松倉重信」の圧政による重税と無理な年貢の取り立て
  • この地には有馬晴信のころに仕えた武士がその地位を捨てて農民になったものが多く(帰農武士)、彼らが密かに一揆の計画を立てるようになる
  • また同時に天草(現在の熊本県)の領民たちも当時の領主、寺沢広高の圧政とキリシタン迫害に苦しんでいた
  • 1637年に年貢を払い切れなかった口之津の庄屋の妊婦が役人に殺されたことでついに農民たちがキレる。島原半島と天草の農民たちは次々と反乱を起こす。その反乱の指揮をとっていたのがかの有名な天草四郎なのである

 

 

ここが本丸門跡

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ここが本丸跡

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原城本丸跡から見る有明海は最高だったよ、向こうに見えるのは天草か

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一揆勢の攻撃開始とその後】

  • 島原半島では島原城、天草では富岡城が反乱軍により包囲される、しかしなかなか落城まではいかなかった
  • 天草側の一揆勢は海を渡って島原半島の反乱軍に合流、その総数は3万7千人。原城に籠城することになる。だが実際にはこの中には女や子供まで入っていた
  • 立てこもった理由は諸説あるがポルトガルが援軍にくることを期待しながら組織的な籠城生活を始めたそうだよ

   ポルトガルの援軍は期待ても無理でしょw

   この一揆が本国まで伝わって軍団整えて日本に軍艦送るまで何年かかるw

 

  • ただの農民一揆かと思われていたが上述のとおり帰農武士による組織化されたものであることが徐々にわかり幕府も本格的に鎮圧に乗り出す
  • 鎮圧のために集まった九州の諸大名は計12万人、数だけなら圧倒的戦力差である
  • 幕府軍原城を取り囲み、兵糧攻めも交えながら攻城を開始する

   しかしながらこの原城

   意外と堅牢で攻めにくい

  • 最初はもちこたえていた原城内の一揆勢も徐々に食料、弾薬が少なくなっていく。当時は原城の裏の断崖を下って行って魚介類などを食料の足しにしていったらしいよ
  • 1638年4月12日に鎮圧軍は原城に総攻撃をかける
  • 原城はその日のうちに陥落し、城もろとも城内の一揆勢は全員殺された
  • ちなみに幕府軍は4回総攻撃をかけているが3回は敗退している。幕府軍の死傷者数は1万人以上となり鎮圧した側も大変な被害を被ったのだ

 

天草四郎時貞銅像、本名は益田四郎で数々の奇跡をおこした少年とされている。やはり一揆軍の総大将となるような人物にはカリスマ性が必要なのだ

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天草四郎時貞の墓碑

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一揆の鎮圧その後】

  • 一揆鎮圧後の幕府の基本姿勢

   「キリシタンの痕跡を一切残さない」・・・

  • 籠城していた城を徹底的に破壊、この地には全国各地から移住させられた人に住まわせる
  • 当時この地を治めていた領主「松倉勝家」は責任を取らされ処刑
  • 1639年 日本は長い鎖国の時代に入る

 

このような大きい十字架の塔がたっている。家族全員でこの塔のまえで祈っていた人たちがおったよ。おそらくクリスチャンであると思われる

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前回の島原旅行で来ることのできなかった原城跡、来て本当によかった。