底辺サラリーマンがアウシュビッツ収容所へ行ってきました
もうクラクフ観光は飽きてしまったんで明日は別のときはろに行こうと思って昨夜はネットでいろいろ調べていたんよね。
結局今日はオシフェンチムにあるアウシュビッツ強制収容所に行って見ることに決めました。
朝飯は昨日と全く同じだったの写真は割愛。。
行き方がわからんかったけそどバスか電車で行けるらしいということでとりあえず駅前のバスターミナルへ行きました。
バスターミナルでかすぎてどのバスに乗ったらいいかまったく分からん。
切符売り場も分からん。全部ポーランド語やん。。
たまたまオフィシェンチム行きと書いてあるミニバスを発見。。アウシュビッツ行くか? と聞いたら行くとのことでこれに乗った。
ここで8ズロチ払った(安!)
帰りの切符を買うか?と聞かれたがやめておいた。
朝の9:20分に出発。。
窓が超汚くて外が殆ど見えん。もっと車洗ってよ。
ちょうど1時間半で到着。。
なんやもう手前で下ろしてくれたんやん
すげぇ観光バスの数
ここが入り口なんだけど入ろうとしたらおばちゃんに止められる。
「お前の持ってるカバンはでかすぎるから向こうの預け入れ所で荷物を預けて来なさい」
「はぁぁ? そんなにでかすぎるのか??」
ここが荷物預け入れ所。しかも金とるじゃん。。 3ズロチなり
入り口は厳重な荷物検査。。
今回はフリーの観光にするかツアーにするか迷ったんだけど英語のツアーに参加することに決めて昨夜ネットで予約してました。
俺が参加するのは12:00からのツアーでここで1時間近く待ちました。
時間になるとこのようなヘッドフォンと受信機を渡されます。
そして入場
今日の英語ガイドのツアー客は約25名ほど
申し遅れましたがまず、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所とはヒトラー率いるナチス党政権下のドイツが第二次世界大戦中に国家をあげて推進した人種差別的な抑圧政策により、最大級の惨劇が生まれたとされる強制•絶滅収容所
主にユダヤ人の絶滅を目的としていた
実はアウシュビッツのほかにビルケナウという収容所がこの近くにある。。被収容者が増えアウシュヴィッツ強制収容所だけでは収容しきれなくなり後からビルケナウ強制収容所が作られた。
有名なアウシュヴィッツ強制収容所の入口。。。ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になる)とかかげられている
ここ良く見るとBの文字が上下反転してるのわかりますか?
この門を作らされた被収容者のせめてもの抵抗だと言われています。
門をくぐって中の様子。被収容者が収容されていた建物が並んでおり修復や補修はされているものの当時とさほど変わらない姿なのだそうで。。。
なぜここに収容所が作られたのか? アウシュヴィッツはヨーロッパのほぼ中心に位置し広範なドイツ占領下および関係の国々から膨大な数の労働力を集め戦争遂行に欠かせない物資の生産を行うのに大変適していたから。
収容されたのは、ユダヤ人、政治犯、ロマ(ジプシー)、精神障害者、身体障害者
同性愛者、捕虜、聖職者など、その出身国は28国にも及ぶ
ユダヤ人---1,100,000人
ポーランド人---140,000-150,000人
ロマ---23,000人
ソ連軍捕虜---15,000人
その他捕虜---25,000人
合計---1,300,000人
そのうち110万人がここで死亡したので10人に1人も生きて帰れる者はいなかった
ただガイドさん曰く、この数値はあくまで概算であってはっきりした数字はわからないそうです
この中には人間を焼却したあとの灰が入っているんだって
貨車で収容所に送られてきた人々の写真
もってきた荷物はここですべて没収されたんだって
この写真かなり衝撃的やった。。駅のホームに集団が2列になっているの分りますか? 右の列は労働力として使えそうな人間。。左の列は主に女性、子供、老人、身体障害者など。。。つまり「価値なし」とみなされた人々。。左の列の人たちの運命は容易に推測できる
そしてこれが選別中の写真。。中央にドイツ将校が写ってますね。。
拡大するとこれ。。。指差してる方向はガス室なんよ。。。つまりこの人間が連れてこられる人々の運命握ってたわけ
そしてこれが選別後、「価値なし」とされガス室へ向かう人々。。
まじで
涙が止まんねぇえ。。。
ガス室の構造をあらわした模型
収容者たちの膨大な数のメガネ(写りが悪くてゴメン)
そしてガス室で使われた「チクロンB」という殺虫剤の空き缶。。これをガス室の穴から放り込まれると中から断末魔の叫び声が15
分くらい聞こえていたらしい。。
そしてカバン。。。カバンはあとで手元に返ってくると思ってたらしくどのカバンにも名前が書いてあった
膨大な数の靴
膨大な数の食器
串や化粧品
その他生活用品
つまりここに送られてきた人々はこの地でまた新しい生活が送れると思っていたんよね
収容所で着せられていた服。。
見にくいけど中央に写っている写真はソ連軍によって収容所が解放されたときの女性の写真。。この女性、収容されたときは体重が75キロあったそうだが救出されたときはなんと25キロだったそうだ。。
一日にあたえられた食事。。こんなもんだったらしい
朝食はコーヒーと呼ばれた液体(コーヒーではない)
昼食は腐った野菜で作られたスープ
夕食はパンとバター
ガイドさんがここで我々に尋ねました。。このような食事で毎日12時間近くも働かされていったいどれくらい持ちこたえられたでしょうか?と言って我々を廊下へ促した
そこには何百枚もの囚人の写真
写真の下にはその人が入獄された日と死んだ日が記載されていた。。
たとえばこの人。。1942年4月27日に連れてこられて同年10月21日に亡くなっている
他の人の写真もざっと見ていくと早い人で一ヶ月、長い人でも半年で亡くなっている。。
ガイドさん曰く、平均すると3~4ヶ月の命だったらしい
連れてこられた赤ちゃんの衣服と子供の写真。。。これはちょっと見るに耐えなかったわ
あと撮影禁止だったんで写真ないけど。。おびただしい数の婦人の髪の毛。。あと独房。。電話ボックスくらいの狭い個室に大人四人入れられるんだって。。とても座れるもんじゃない。。。窒息する囚人も多かったらしい
230Vの高圧電流が流れていた有刺鉄線。。
あまりの苦しさに自らこの鉄線に身を投げた人もいたそうです
主に抵抗組織の人々が銃殺された死の壁
復元された集団絞首台も当時設置されていた形で展示されている。横棒に多くの処刑者をぶら下げて絞首刑に処したのだ
ソ連軍による収容所解放後、初代所長だったルドルフ・フェルディナント・ヘスが1947年4月このこの絞首台で処刑されました。
ではいよいよガス室に入ります。。ここで一度に数百人の人が詰め込まれ、外から鍵をかけられ、そして一瞬にして虐殺されました。
ここがガス室内部。。シャワーを浴びるといって安心させておいて実際はチクロンBによる抹殺。。昔はダミーのシャワーがつけられていたそうだ
ガス室のとなりに焼却場がありました。。
ここでアウシュビッツ収容所の見学ツアーは終わりました。。70年前にここで起こっていたこと。。自分だったらたぶん気が狂ってたでしょう。。
ではビルケナウへ続きます