江戸時代の国家経済を支えてきた「足尾銅山」に行ってきたっぺ(*^-^*)
栃木県の足尾銅山についにやってきました(*^-^*)
大間々から国道122号線を通っていつも日光まで行ってたんだけどここ足尾町はいつも素通りでした(;^_^A
高校の課外授業以来となる足尾銅山観光です
入場料はなんと830円だよ
トロッコ乗り場の前に置かれている坑夫の人形、めちゃくちゃリアルに作られていて今にも動き出しそう....
トロッコがやってきた。15分間隔でピストン輸送しているのでまったく待つ必要はない。今日は観光客が全然いないので閑散としている。ちなみにこのトロッコで炭坑の中まで入っていくのだが実は...
往路だけ(;^ω^)
足が不自由とかそういった特別な事情のある人以外は歩いて帰ってこいというシステムなのだw (まぁたいした距離じゃないからどうでもええんだけどね)
ちなみに乗車口に訪問者ノートが置いてあったのだがもはや落書きレベルで草
トロッコ出発でゆっくり進んでいく。もはや歩いていっても同じといった速度
5分程度の距離なのに牽引車の意味不明な付け替え作業が途中で入る
いよいよ全長700メートルの坑道に入っていく
ちなみに坑道の中はもちろん電波は届きません
ここでおいらを置き去りにして冷たく帰っていくのだよ。ここは国史跡に指定されている通洞坑で掘削に11年もかかっている
坑内は非常に涼しい。夏は最高に快適な空間なのだ
この先1200キロ以上の坑道が続きますという表示。約400年かけて掘り進められていった総延長距離は1234キロ(覚えやすい) 東京から博多間までの距離なのだ
もちろんここは立ち入ることはできない。
坑道の中にはこんな不気味な人形があちこちに置かれているんだよ
坑内にはこういったボタンが設置されていてこれを押すと
照明がついて説明の音声が流れるというしくみになっている。人形によっては動くものもある
この坑道は先に進むにつれ江戸時代から近代までの歴史の流れを追うような感じで説明がされていく。まずは江戸時代からスタートなのだ
車を押す人不夫、江戸時代はもちろんトロッコなんかないからこういった人力で胴の原石を運び出していたんだよ
手堀り坑夫と呼ばれている職人さん、当時はまだ掘削機などはなくすべて人海戦術だったのだ
ごらぁぁ!怠けとったら承知せんぞ!!
とまでは言ってなかった思うけど、代官所の役人、1610年(慶長15)に経営が江戸幕府の直轄になって当時は銅山奉行の代官所が設置されていたそうだよ
この人形制作者、狙ってやってるんだろうか? 表情がめちゃくちゃキモイものが多いんだよ
「水替人夫」当時はポンプなんてなかったから坑内排水の仕事も重労働で大変だっと思うよ
「鉄サビ結晶地帯」と言われているとこ。地下水に含まれている鉄分が大きくなって岩石に付着している
ここからは明治・大正時代、どれだけの機械化がされているのでしょうか
削岩機キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
作業は楽にはなったが坑内に響く爆音はそうとうなものであっただろうと想像
このころだっけっか有名な足尾の鉱毒事件が発生したの、当時は環境保護などという概念はなかったのだ
そして昭和時代に突入、作業服の装いもずいぶんと変わってきている
昭和に入ると掘削方法もダイナミックになってきており削岩機で開けた穴にダイナマイト仕掛けて爆破させて堀り進むという方法がとられるようになった
これから発破かけるので避難してチョーだい
坑内にはこういった賽銭箱も置かれているんだよ
坑道を出るとこういった昔鉱山で使っていたものの展示物が置かれている
坑道を出ると当時の削岩機が置かれている。スイッチを入れるとけたたましい音で機械が動き始める
運び出された鉱石は砕女(かなめ)と呼ばれる女工たちによって数センチという小さいものに砕かれていく。
江戸時代の溶鉱炉、ここで鉱石は精錬されて銅を抽出していくのだ
帰りはトロッコでやってきた道なりをそのまま徒歩で戻る
そしてここが足尾銅山の博物館だ、当時の作業などを再現されたミニチュアなどが展示されている
このミニチュアも精巧に作られていて見ていて飽きないよ
こんなもん無造作において盗まれんのかな?と思っていたが銅の価格って今現在約1200円/キロくらいなんやね
そして帰りは強制的にみやげ物屋を通らされるというルートになっている
最盛期は大正時代で約10,000人の労働者がここで働いていた。昭和になると機械化がすすみそれでも4,000人前後が採鉱作業に従事していた
昭和の閉山時には1,000人程度まで減少、やはり400年間堀りまくっていたので銅資源の枯渇と海外からの安価な銅の輸入により採算がとれなくなった。現在世界遺産登録に向けて活動中らしい