鎖国の時代でもここだけは熱かった「出島」に行ってきたっぺ!(^^)!
鎖国時代の日本、唯一の海外との接点があった場所が長崎にあった。みなさんご存じの「出島」である。出島は1641年に作られてから以後200年にわたり外国との交易の中心になったのだ。
当時の出島は陸から海に突き出た状態であったが現在は周囲が全部埋め立てられて、長崎市内の一部となっている
出島に限らず観光スポットはほとんどすべて入場の際に連絡先を書かされる。しかたがないが個人情報ばらまきまくってるやん
入場料は520円という微妙な料金設定
観光地あるあるだけど、こんな人たちが手の消毒の喚起。なお要望あれば記念撮影に応じてくれる。
出島は建物も新しくてめちゃくちゃきれいやんw ここは1996年に復元工事がおこなわれているのだ
出島想定してたけど小さいよぉ。こんなとこでずっと生活するのは私じゃむりだわ
まずは蘭学館に入ってみるっぺ、中には出島当時の最新の科学技術が展示されている。
須弥山儀(しゃみせんぎ)っていうのが展示されておったよ。仏教の宇宙観による天動説に従って作られたもので時計とカレンダー、月や太陽の動きを表現する機構があるらしい。
解体新書、当時はオランダから輸入されたもので日本人を魅了したのは物だけではない。オランダからの学問を学びたいと全国から学生や教師たちが訪れたのだ
ヅーフ・ハルマという蘭日辞書の写本、収められている単語は約5万語。今売られているジーニアスの英和辞書とボリュームほぼ変わらんやんけ
200年前の英和辞書、収められている単語は約6000語で今でいえば辞書というより単語帳といった感じ。英語、日本語に加えてオランダ語も併記されている。
エレキテル 世界初の発電機で医療や見世物としても使われていた。ちなみにエレキテルの発明者は平賀源内って教えられてる人多いんだけど、発明されたのはオランダで彼は壊れたエレキテルを入手して復元しただけなのだ。まぁそれでもすごいんだけどね
当時のすごろくだよ。なんか昔の人生ゲームみたい
出島のミニチュア、暑いからどうしてもエアコンの効いた部屋に長くいてしまうんだよね
青銅製の12インチ砲
昭和29年に浦上の河口付近で発見されたもの。東インド会社の社章「Amsterdam Anno 1640」という文字が刻まれてるためアムステルダム所属の船舶に積まれていたものと思われる
鉄製大砲
昭和39年に長崎市内の浦上河口から発見された大砲。長崎は歴史の町だから掘ればまだいろんな遺跡が出てきそうなんだよな。
当時のビリヤード、実は南蛮船の入港はだいたい7月で2か月間停泊。つまり10月から翌年の6月までは出島の仕事はめちゃくちゃ暇だったらしい。出島からの外出はもちろん禁止されていたんでオランダの商館員たちにとってビリヤードは数少ない娯楽の1つだったんやね
ビリヤードをやっているオランダ人たちのミニチュア模型、当時のビリヤードはボードアンドキングと呼ばれていて今のルールとは多少異なっていたらしいんよ
ちなみにここに清掃員のおばちゃんがおったんだけどこのおばちゃんが話好きなおかたで。。
1時間近く話し込んでしまたww
延々と続いたこのおばちゃんの会話を要約すると以下のとおりである
- 自分が子供のころ出島は非常に荒れ果てていて修復作業に膨大な時間、労力、お金がかかっている。ここは長崎のもっとも貴重な文化施設である
- 長崎に来る若者はみんなハウステンボスなどのテーマパークに流れていく、出島は長崎の貴重な文化遺産でありこういったところにも来てほしい
- 出島の建物の中には土足厳禁のところがある、それなのに平気やじで土足で上がってしまう観光客が多くて困っている ←つまり愚痴
- 出島には貴重な出土品が展示されている。それなのに「こんなガラクタ展示なんかするんじゃねぇぇよ!」と言った心無いお客さんがいた
苦労ばなしの他はこのおばちゃんの愚痴がほとんどだったよ(-_-;)
ここがカピタンの料理部屋
当時の出島の商館員たちは昼夕の毎日2回カピタンの部屋に集まって食事をとるのが習慣だったそう。ここはそのための調理場でここだけはオランダ人が自費で建てた建物だそうだよ。特に牛肉は日本国内での入手は困難だったらしく出島の中で飼育していたそうだよ
水溜も再現されている。生活用水は竹樋で出島の外から引き込んでいたらしいんだけど、飲料水は水売りから買っていたそうだよ
カピタンの部屋まじですげえな日本版ベルサイユ宮殿といった感じ。この‘17.5畳の部屋は日本の役人たちとの商談に用いられていたものと思われる
立ち入り禁止区間にはこういった侵入検知システムがいあたるところに置かれていた
ここは15畳の部屋。ここも先の畳の17.5畳の部屋と同じく商館員たちが事務や商談をおこなう部屋とされている。なお手前正面の展示物は幕府へ献上するオルゴールをチェックしている情景を再現している
オルゴールを入れる箱の中のクッションが藁ww
カピタン部屋の会食の風景。ここではクリスマスのお祝いのときの料理(もちろん模型)が並べられている。
ここが涼所と呼ばれているところだよ。カピタン屋敷で唯一海を展望できるところだったらしい。ちなみにこの部屋は建物の中でもっとも傷みやすいところで何度もの修繕された記録が残されている
実際ここはエアコンがいちばん効いていて休憩するには良いとこだった
建物の外に出てみる。400年前はここに多くの日本とオランダの貿易商人たちでにぎわっていたのかと思うと感慨深いものである
当時の日本の輸出品の代表的なものは銅だった。大阪にたくさんの銅屋というものを作って全国各地から集められた荒銅を集めてきてそこで下の写真のように棹銅に精錬して長崎に運んだそうだよ
ちなみに銅屋でいちばん有名なのが泉屋と呼ばれていて現在の住友の先祖だそうだ
陶器類も日本の重要な輸出品のひとつだった。有田や肥前などからたくさんの陶磁器が輸出された。18世紀になると残念なことに中国陶磁器が出回るようになって日本からの輸出は衰退していったそうだよ
出島にオランダ船が入港した時の出島のようすのミニチュア
船から荷下ろしした品物の検品作業がおこなわれている
このミニチュアは本当に精巧に作られていて見ていて本当に飽きない。
オランダから輸入されたものの中には動物もあった。特に象を初めて見た日本人は大変に驚いたそうだよ
三番蔵の内部、特に輸入した砂糖を収納するのに用いられた蔵、製糖技術の未熟だった当時の日本で砂糖はとても高価な品物で白砂糖は仕入れ値の3倍、黒砂糖なら10倍の値段で売れたそうだよ。現在のお金で毎年1億円もの出島使用料を払ってまでオランダ人たちが日本との交易を続けた理由はそれ以上のメリットがあったからなのだ
当時のオランダから伝わったお菓子類、今現在見られるこれらのお菓子は当時のオランダから伝わったもの
出島から輸入された砂糖は全国各地に流通していった。特に長崎から小倉の間の街道はシュガーロードと言われていている。特に佐賀の鍋島藩には砂糖が潤沢にあってお菓子王国だったらしい。そういえば今のグリコや森永の創業者も佐賀出身だよね
出島は数回の大火災にあいそのたびに修復を繰り返してきて今に至っている。このおっちゃんは土木技師なのだろうか熱心にビデオを見ておったよ
炉跡遺構
銅蔵の周りから床面を削って火を燃やしていた跡がたくさん見つかった。銅を輸出するためオランダ商館員たちが検品のための過程で使っていたのではないかと思われている。
たくさん置かれている輸出用の棹銅の箱、もちろんこれは模型であって箱は全部固定されている。この箱1つの中に約200本の棹銅が入れられていて1箱の重さは約60キロ