社内ニートが巡る全国旅日記

今にも会社クビになりそうな超ド底辺社畜ニートがいろんなとこ巡ってます

島原城下にある「武家屋敷」に行ってきたっぺ(*^-^*)

島原城内に車を停めて徒歩でやってきたぜ「武家屋敷跡」島原城下、知行4万石で当時の城主はキリシタンにとってまさにサタンの申し子的存在であった恐怖の松倉重信

 

重信による島原城築城の際はその周囲に70石以下の武士たちの住居が作られたのだ。当時ここは鉄砲隊の住居であったので鉄砲町とも呼ばれている。今はこの通りしかないけれど昔は通りが7つあって約700軒の家が建ち並んでいたそうだよ

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街路の中央に水路が通っていて生活用水および防火用水として使われていた。ちなみに島原藩は「水奉行」という役人がおって水路で日用雑貨品を洗うと即没収、またここに汚水を流すと処罰するなど厳重に水路を管理していたんだよ

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武家屋敷が並んでいるといっても実際は3軒だけであって残りはこういった民家なのだ。民家でも観光にあやかろうと軒先でいろんなお土産売ってるとこも多い 

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 なかにはもう何年も放置されていてもはや廃墟となっているものや

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売り家として出されているものもかなりあったよ。やっぱ家主の高齢化や家を継ぐ者がいなくなったりとここも廃れてきてる。なんかすごくもったいない気もするね

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昔はこんな屋敷を囲む塀なんてなかったそうだよ

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ここの武家屋敷通りといっても現存するのは「鳥田邸」「山本邸」「篠塚邸」だけなんだよ。ちなみに1669年に松平忠房島原藩の藩主になると故郷の三河から大勢の家臣を連れてきたらしいんだよ。三河なまりの「鉄砲町言葉」が話されていたそうだ

 

まずは「鳥田邸」に入ってみる。ここ島田邸の初代は鳥田佐五左衛門で彼も松平氏と一緒にやってきた家臣で歴代地方代官、郡方物書、幕末には材木奉行・宗門方加役・船津往来番などの重役についていた。

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大きくはないが生活するには必要十分といった感じ。地元のおばちゃんがちょうど掃除にきていた。1時間も世間話をしてしまったよ

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次は「山本邸」に入ってみる。ここの山本佐五左衛門もやはり当時の松平藩主に従って三河からやってきた家臣、子孫代々砲術師範として藩の役職を歴任した

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山本邸は島田邸より大きかったけどほとんど同じ。

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山本邸には広くはないがこんな日本庭園があった。屋敷の中には命令により梅・柿・蜜柑類などの果樹を植えることが奨励され自給できるようになっていた。

 

行った時はちょうど地元の庭師さんが汗だくになって剪定作業をおこなっていた

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山本邸かなり広い、俺も最近家を購入したんだけど本当はこんな家を買って住みたかったんだよ

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ここに住んでいた武士たちは平時は書記、検察や警察、城門の警備などをおこなっていた。1868年(明治元)の「戊辰戦争」では島原藩は新政府軍として参加、ここから200人以上の武士が奥州まで従軍し、4人が帰らぬ人となっている

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 最後に「篠塚邸」ここの篠塚順右衛門も、松平の家臣で三河から移住してきたのだ。(全員松平の家臣)、ここの家系も11代まで続いて書記や代官などを務めていた

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これらの家は全部無料で入ることができる。「武家屋敷休憩所」もあって島原市内散策がてら立ち寄って休んでみるのもいいかも。