社内ニートが巡る全国旅日記

今にも会社クビになりそうな超ド底辺社畜ニートがいろんなとこ巡ってます

東北を代表するキリシタン殉教地「北山原殉教遺跡 」へ行ってきた 

豊臣秀吉による禁教令が発布されたあと、日本各地でキリシタンの弾圧が激しくなり特に長崎、江戸、京都などで多くの殉教者を出すことになった。東北の大名たちはキリスト教に比較的寛容であり禁教令のあとしばらくの間は取り締まりも緩かったのである

 

当時の米沢藩主であった景勝の頃においては幕府に対し「当領内には切支丹一人も御座なく候」と報告していた。しかしながら2代目藩主の定勝の頃になると幕府のキリシタン狩りはいっそう激しいものとなり米沢藩でもついにキリシタン弾圧が始まったのだった

 

米沢市内にある北山原というところでは数多くのキリシタンが殉教した場所なのだ

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住宅街の中にポツンと存在する「北山原殉教遺跡 」ぱっと見ると普通の公園と見間違えてしまうほど

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1629年(寛永5)に甘粕右衛門一族らの殉教をはじめ米沢のキリシタンの多くがここで殉教した

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ここにはキリストの十字架像が建てられている。キリスト教の信仰を最後まで捨てずに殉教していった人々を神はどのように見ていたのだろうか?

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十字架の下にはマリアとヨハネ像と木で作られた十字架が建てられている

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そしてこの十字架の裏にはこのような共同墓地がある。全部キリスト教信者さんたちの墓なんだよ

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当時、会津若松で布教活動をおこなっていたポーロ神父は祖国ローマに宛てた書簡において下記のように伝えている

 

  • 甘粕右衛門(洗礼名:ルイス)は米沢藩において上杉景勝とその子である定勝の御側用人としてはたらく三百石の上級武士であったが、藩は甘粕に改宗するように説得を試みたものの本人は殉教の道を選んだ。
  • 最初の殉教は右衛門を含んだ甘粕一族で、彼の2人の子と妻、甘粕家の重臣などが北山原まで連れていかれ処刑された

当時処刑された右衛門の子供はなんと

 

3歳と1歳(洗礼名:ジェスタとルチア)(´;ω;`)ウゥゥ

 

一族の首は見せしめのため路傍に晒されることになる。甘粕右衛門に続き捕まった他の信者も次々と殉教しその数は57人に及んだ。

 

刑の執行命令を下した者、実際に刑を執行した者、誰も好き好んでやっていた訳ではない、何か悪いことをしたわけでも無いものを処刑するのはなんとも心苦しいものであっただろう。幕府の命令に背いたら藩自体に不利益を被るから仕方なくやっていたのである。

 

刑を執行することになった奉行は刑場において見物人に向かい「ここで死ぬものは信仰のために命を捨てる身分の高い人であるから、処刑の時に皆土下座するように」とまで言っていたようである

 

また北山原以外の糠山や花沢地区においても下級武士やその家族、農民などが殉教した

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その後、キリシタンの処刑地は北山原から松原となり、この地は忘れ去られた存在となった。時は過ぎて昭和3年、この地に布教に来られたシュインテク神父による調査によってこの地が殉教地であることが正式に確認され現在に至るのである

 

それにしてもここは非常に芝の手入れがなされていてとてもきれいに整備されていた

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2008年ローマ・カトリック教会は殉教57名のうち名前が確認された53名聖人の位に次ぐ福者と宣言した

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