郡崩れで処刑されたキリシタンたちの「胴塚跡」へ行ってきた
先ほど「首塚跡」に行ってきたので今度は「胴塚跡」にやってきた。「首塚跡」と「胴塚跡」は500mくらいしか離れていない。この「胴塚跡」は今からおよそ400年前、禁教下において長崎に潜伏していたキリシタンが一斉摘発(郡崩れ)され首を切り落とされたキリシタンたちの胴の部分が埋められたとされる
胴塚のあるところはこんな住宅街の中なんよ
【大村での殉教の歴史】
- この土地は16世紀大村純忠(おおむらすみただ)が統治していた
- 純忠およびその家臣たちは1563年、横瀬浦(現在の長崎県西海市)で洗礼を受け自らキリシタンになる
- 領主の改宗によって領民たちもキリスト教に改宗するようになる
- 1587年に純忠が亡くなり息子の喜前(よしあき)が跡を継ぐと日蓮宗に改宗
- 1614年に幕府による禁教令が発布、厳しいキリシタン弾圧がはじまる
- 1614年に大村で初めて殉教者が出る。布教活動をおこなっていたイエズス会とフランシスコ会の外国人宣教師2人、大村湾沿いの帯取(おびとり)にて処刑
- 1617年からの5年間に次々とキリシタンが捕らえられ次々と捕らえられた
- 特に有名なのは「元和の大殉教」外国人宣教師を含め日本の信者たち56人が長崎西坂の丘で処刑、25人は火あぶり(内1人は途中で柱を離れている)、31人は斬首
- 1657年に大村領内の郡村で「郡崩れ(こおりくずれ)」が起こるという事件が起こる。キリシタン608人が捕らえられ、改宗した99人は放免、78人が取り調べ中(恐らく拷問)に死亡、20人が永牢(終身刑)、そして411人が斬首