外海地区の布教と経済発展に人生のすべてを捧げた「ド・ロ神父記念館」に行ってきたっぺ ^^) _
【ド・ロ神父とは】
- 本名:マルク・マリー・ド・ロ(フランス語:Marc Marie de Rotz)
- 生年月日:1840年3月26日 没1914年11月7日
- 出生地:フランス カルヴァドス県ヴォシュロール(ヴォスュロール)村
- 所属:パリ外国宣教会所属のフランス人宣教師(司祭)
- 来日:1868年(慶応4年)6月
- 司祭のベルナール・プティジャンが帰国中に印刷技術を持った宣教師を募集したのに応じて来日
- 1871年(明治4年)に横浜へ行き修道院などを建築
- 1873年(明治6年)浦上四番崩れによる流刑からの釈放を機会に長崎に戻る
- 1878年(明治11年) 出津教会主任司祭となる
ちなみにこのときド・ロ神父は初めて外海地区に来るのだが、当時のここの住民のあまりに貧しい生活に言葉を失う。私財をすべて投げうって外海の復興に人生を捧げた
ここで修道女として働いていた女たちはド・ロ神父の指導によって織布、編物、素麺、マカロニ、パン、醤油などあらゆるものの製造をおこなった。ここの住民たちになんとか経済的に自立していける基盤を作りたかった
ちなみに当時の素麺技術は現在も「ド・ロ様そうめん」として販売されている
大浦天主堂建築現場において足場から転落したのが原因だったらしい
【ド・ロ神父記念館】
記念館の内部はこんな感じ、木造の建物であるがしっかりと管理、維持されている
ド・ロ神父の祭服
ド・ロ神父の履歴書
当時の宣教届け、当時は勝手に宣教することができず届け出が必要だった。当時の長崎県知事は服部十三
ド・ロ神父が愛用していたルカによる福音書、日本語がかなり堪能であったと推測される
ド・ロ神父が晩年本国に送った最後の手紙、妹のマグダレナが亡くなったとき婿であったパウロ氏に宛てたもの。
またド・ロ神父記念館にはたくさんのアルバムが置かれていて高齢のおばあちゃんとここを訪れた人たちとの記念写真がたくさん残されていた。受付にいたシスターに聞いてみたところこのおばあちゃんはこの記念館で働いていた「橋口ハセ」さんというかただそうだ
ちょうど私がここを訪れる1ヶ前に101歳で帰天されたそうだよ
ド・ロ神父ゆかりのオルガン、橋口ハセさんはこのオルガンを50年以上にもわたって引き続けた。あと少しでも早くここを訪れていれば橋口さんにお会いできていたかもしれなかった
私:「ハセおばあちゃんの後任としてこのオルガン弾かれてみてはいかがですか?」
シスター:「私なんか絶対にムリですよぉぉ(;'∀')」
結局、私が訪問した時間はだれも来なくて受付のシスターさんと1時間以上も話し込んでしまったよ('◇')ゞ