世界遺産「富岡製糸場」訪問記!日本の近代化はすべてここから始まった
中学校の歴史の授業でかならず出てくる富岡製糸場、近代日本の礎を支えた貴重な産業遺産であり現在は世界遺産にまでなっている富岡製糸場に行ってきた。世界遺産ということでかなり勇んで行ってみたのではあるが...
ここは施設専用の駐車場というのが存在しない( ゚Д゚)
市営の駐車場はあるけれどもここからかなり離れている、近場のコインパーキング場もあったがどこも満車だったんだよ、しかたがないから富岡駅東駐車場(無料)に停めて片道30分(往復1時間だよw)のかなりはなれたとこの駐車場に置いた
ここの入場料はなんと
1000円( ゚Д゚)
まずは富岡製糸場とは...というコーナーから拝見させていただいたのですが、正直言って富岡の歴史とか製糸業の話とか基本的に興味がないもんでして(*^-^*)
しかも教養がないので恥ずかしいのだが富岡製糸場はなんと
1987年(昭和62)まで操業しとった( ゚Д゚) ついさいきんやん
40分ほどのガイドツアーに参加することにいたしました。製糸場入口まで戻って200円支払いツアーに参加、30分おきに出ていている
いろんなとこを連れていってそれなりに詳しく説明してもらったんだけどやはり..
近代日本の産業やその歴史に興味ある大人しか楽しめないと思う
(小学生などを連れてきてもすぐに飽きるはず)
富岡製糸場の非常に残念なところ
工事中の場所が非常に多い(多杉)
入場料1000円もとられてさらに工事中ばっかりで非常に残念。しかも....
工事中の施設見たかったら別途200円とられる(# ゚Д゚)
さすがにこれは世界遺産詐欺だろう
富岡製糸場のすごいところは工場閉鎖後も片倉工業って資本金が18億円くらいしかない企業が莫大な固定資産税と工場の維持管理をしてきたらしいんだよ、その額はなんと年間
1億円( ゚Д゚)
ここの製糸場は国策により建てられた当時の技術の粋を集めて作られた工場、もちろん工場だけ作っても働き手がいなければただの建物だよ。
当時の明治政府は女工400名を募集したがけっきょく50名弱しか集まらず、さらに募集範囲を全国にまで広げたがまったく効果なし(ンД´)ノ
その理由は当時広まっていたあるうわさ
当時技術指導にきていた外国人たちは
「日本人女性の生き血を飲んでいるw」
それワインだから....
やっとのことで全国から集めた女工さんたちの勤務体系であるが
【勤務】
勤務時間:季節にもよって異なるがおおむね朝7時から夕方4時半(約8時間勤務)
契約期間:1~3年
年間休日 : 76日 (週休1日、その他、祝祭日、年末年始、お盆休み)
ちなみに9時から30分、12時から1時間、午後にも15分休憩時間があって今ではどうってことない勤務体系であるが当時では画期的だったらしいよ
【女工たちの給与体系】
- 一等工女 25円
- 二等工女 18円
- 三等工女 12円
- 等外工女 9円
給料は月給制で年功序列ではなく完全に職能制、当時の1円は現在の2万円と言われているのでかなりの高処遇であったことがうかがえる。工場に入ったばかりの女工は等外として業務を開始し一等工女を目指すのだ。(一等工女は全体の3%程度しかなれなかったそう)
上記の他に作業服代で夏服料2円、冬服料3円の計5円が支給される。また寮費、食事代、光熱費無料、工場内の病院にはフランス人医師がおり治療代、薬、入院費もすべて無料
俺が働きたかった(*^-^*)
ちなみに田舎から出てきた工女たちはこの西洋風のレンガ作りの建物にたいそう感動したらしいんだよ(昔も同じだね)
ここで女工たちは技術を磨くために日々鍛錬していたんだよ、製糸の製造工程は大きく分けると下記の通り
- 乾繭 (かんけん):上記の熱で繭を乾燥させる
- 選繭 (せんけん):虫食いの繭や汚れた繭を取り除く
- 煮繭 (しゃけん):繭を煮て繭糸をほぐれやすくする
- 繰糸 (そうし):いくつかの繭の糸口を何本かよりながらまとめていき1本の生糸にする
- 揚返し (あげかえし):生糸の強さ、光沢、柔軟性、風合いなどを整える作業
特に女工たちにとっての花形の作業は繰糸 (そうし)だったそうだよ。特に一等工女だけは赤いタスキと高草履姿を履くことを許され女工たちの憧れだったそうだ
富岡製糸場は官営(のちに民間に譲渡される)の工場であったが女工たちの立場は「製糸技術を習得し、後に全国の製糸工場に技術を伝えるため」だった。彼女たちは伝習工女と呼ばれており、士族など家柄のいい女性が多かったそうだよ
でもやはり一等工女になると.....
周囲の工女からの嫉妬も激しかったらしい(*^-^*)
(美人だから一等にされたんだろとか、所長に気に入られたんだろとか...)
ここでは日々女性たちの熱いバトルが繰り広げられていたのだ
ここが女工たちの寄宿舎
ここが診療所、フランス人医師が常駐していて健康診断もやっていたらしい。まさに今の産業医みたいなもの
そしてここがフランス人生糸技術者のブリューナ宅。彼は富岡製糸場の建設地の選定からかかわっていた
このブリューナ氏の報酬であるが
月給600円+賄金が毎年1,800円
つまり現在のお金に換算すると
約1億8000万円( ゚Д゚)
まぁ某日産の元社長に比べればたいした額ではありませんが...
ここが「女工館」と呼ばれている建物。当時は4名のフランス人女性教師が常駐していて女工たちに製糸技術を教えていた
「検査人館」生糸の品質管理や製糸機器などを担当していたフランス人男性技術者の宿舎
日本の近代化の礎となった製糸業、明治時代の輸出の30%近くが生糸であった。そしてそして明治42年ついに世界一の生糸輸出国となった。
以後、大正、昭和の戦前までの80年間日本の総輸出品目の中で第一位を守り続けた花形産業だった。今の日本があるのは富岡をはじめ全国各地の製糸工場で働いていた女工さんたちの貢献であり、彼女たちの努力に感謝したい