社内ニートが巡る全国旅日記

今にも会社クビになりそうな超ド底辺社畜ニートがいろんなとこ巡ってます

プサンの忠烈祠(チュンニョルサ)に行ってきたっぺ (韓国旅行5日目)

今朝は東莱区の忠烈祠(チュンニョルサ)へ行ってきました。ここは遠い過去のお話になりますが豊臣秀吉の時代におこなわれた朝鮮出兵、俗に言われる文禄・慶長の役で戦死した李氏朝鮮軍の兵士が祀られている場所ね

 

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入り口にはこんな像があってすぐにわかったわ

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ちなみに文禄・慶長の役って豊臣秀吉が当時の中国(明)を制圧するために1592年と1597年に朝鮮に出兵したことで始まった戦争だ。諸説あるけども戦力は下記のとおり

 

日本軍:14万人

朝鮮軍:17万人

それと日本の勢力が中国まで及ぶことを恐れた明国軍が途中から朝鮮軍に加勢して

明国軍:7万人

 

日本軍は約25万人の大軍と戦ったわけだ

 

ちなみに行った日は朝早かったせいか誰も来ておらんかったわ

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ここもプサンを訪れた小中高生の社会科見学の定番コースとされているらしい。慰安婦→徴用工ときて次は300年前の文禄・慶長の役の戦後補償を騒ぎ始めるねwf:id:neet-tabi:20190504000359j:plain

 

ここは日本軍が上陸した釜山港(あっという間に制圧されたらしいよw)から李氏朝鮮軍の最初の軍事拠点である東莱城から近いのね、このあとは東莱城に行ってみよう

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秀吉が明国征伐をおこなうに至った目的は何だったのかは諸説あるけれども、少なくても信長の時代にルイス・フロイスが地球儀を日本に持ってきていたから秀吉も当然見ていただろうし今の地球儀ほどの精度じゃないけれども明国がどれだけ大きい国かは分かっていたと思う。たった20万の兵力であの広大な国土をどうやって制圧しようと思っていたのかな?

 

やっと入り口にたどりついたわ

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入り口には高級セダンがずらりと並ぶ、ヒュンダイのグレンジャーってやつですかね。韓国セダンでなければ自家用車にあらずってくらいセダンが多い

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入り口の案内所では入場料とられなかったのでそのまま入らしてもらったわ

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文禄・慶長の役の当時の記録は日本はもちろん韓国や中国にも残っているんだけど共通して書かれていることは

 

李氏朝鮮軍は弱かったw

 

もう弱いっていう次元じゃなくて日本軍が城に攻め込む前に逃げ出してしまっていたらしい。1592年の4月13日に釜山を攻略してから約2カ月で平壌が陥落、いちばん抵抗が激しかったと言われている東莱城の戦いですら半日で陥落したそうである。100年以上の戦国時代を戦い抜いてきた兵士の強さ、あと武器の決定的な差。当時の日本は鉄砲を大量に導入していたが朝鮮軍にはほとんどなかったらしい

 

ちなみに文禄の役で朝鮮に渡った日本軍の陣容はこんな感じ

 

全部で10の軍団に分かれていた

一番隊:小西行長

二番隊:加藤清正

三番隊:黒田長政

四番隊:島津義弘

五番隊:福島正則

六番隊:小早川隆景

七番隊:宇喜多秀家

八番隊:浅野幸長

九番隊:豊臣秀勝

水軍:九鬼嘉隆

 

 
 

そして総大将は

 

宇喜多秀家ww

 

 

当時の寿命が短かったといえ若干19歳で総大将ってすげぇな

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池があって鯉のえさが20円で売られていたよ

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日本軍が順調に進撃できたもっとも大きい理由は現地民の協力が大きかったらしいね。多くの朝鮮民衆が日本軍に味方したらしい。地理にまったく疎い他国の軍隊が1日平均10kmという驚異的な進撃ペースを維持できたのは現地民が協力してなかったら絶対無理だっただろうよ

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日本軍が平壌に入ってからいよいよ明国の登場じゃ。当時の李氏朝鮮宗主国である明に援軍を求めていたので援軍登場。ここで初めて日本軍が本格的な戦闘状態に入る。まぁ朝鮮出兵といっても実際日本が戦ったのは民国軍だったわけでw

 

やっと援軍到着。。総大将は「祖承訓」兵力は約7000で平壌を奪回しようとしたが返り討ちにあう。ちなみに当時平壌に入城していたのは一番隊の小西行長で兵力はおおよそ15,000

 

明国ここであきらめない。こんどは「李如松」が4万の軍隊を率いて平壌城を包囲。この李如松」っていう人は明国でもでも英雄と呼ばれていたそうで今度は武器も大量の大砲を導入。城内から鉄砲でパンパンやったって勝てるわけもなく平壌城は奪還され小西行長隊は敗走、漢城に後退し三番隊の黒田長政と合流

 

 

ちなみに忠烈祠本堂まで行くにはこんな階段を上がっていかなければならない。登るときはいちばん右の階段、降りるときは向かっていちばん左の階段から降りる。真ん中の階段は神様専用でござる

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漢城(今のソウルね)の日本軍はこのまま籠城するか再び進撃するか迷ったが籠城策をセレクト。南下してきた明軍と再び戦いが始まる(碧蹄館の戦い)

進撃してくる明国李如松」の4万の軍隊と日本軍3万が激突しました。六番隊の小早川隆景、六番隊の小早川隆景、総大将の宇喜多秀家が敵を囲むようにして撃退

 

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この戦いでソウルに南下してくる明軍に対して挟撃しようと北上してくる朝鮮軍があったんだけど明軍撃退されてしまって挟撃の戦略狂ってしまった朝鮮軍は単独で日本軍に挑むことになる。やっとここで出てきたで朝鮮軍(笑)

 

日本軍にあっという間に撃退されて幸州山城へ逃げ込む。この時の兵力は日本軍3万、朝鮮軍の守備隊は2千人ちょっと。

 

は~いここからは朝鮮の歴史からの抜粋です

誇り高き朝鮮軍は日本軍に会心の勝利 日本軍の死者1万人、朝鮮軍の死者100人w

 

世界の戦史に残る奇跡の大勝利だったとのことである。両軍合わせて20万人が激突した関ケ原の戦いですら死者は6000~8000人と言われてるから空前絶後の大勝利だわw

ただ日本軍が攻略できなかったというのは事実みたいやね

 

 

忠烈祠ってこの階段を登っていくんだけどこうすることによって心が清められていくらしいんよね。汚れきったオレの心の浄化は無理やわ

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 兵糧の補給に窮していた日本軍は明との和平交渉をおこない朝鮮半島からの撤退を決意(ここに至るまでいろんなことがあったみたいだけどね) 南朝鮮の実効支配の事実だけはしっかり残しておけっていう秀吉の檄が飛んで前年に敗退した晋州城の攻略にとりかかる(第ニ次晋州城の戦い)

 

諸説あるが日本軍は朝鮮にいた軍団をほぼ総動員して朝鮮軍が籠城する晋州城を総攻撃、10日以上におよぶ攻城戦の末朝鮮軍全滅(合掌)

 

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文禄の役が終わってやっと帰国できるわと安心していたのもつかの間、秀吉からリターンマッチしてこんかい!!との命令が出て慶長の役が始まりました。やっと終わったと思った戦からまた朝鮮半島へ行かなければならない気持ちは推しはかれんやろうね。

 

初戦は水軍戦や(漆川梁海戦) 今度は上陸させと思って朝鮮軍も水軍を整備していたが海上と陸上からの攻撃を受けた朝鮮水軍は壊滅。再度日本軍の侵攻を受けることになる。

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慶長の役の第2戦は南原というところでおこなわれた攻城戦、日本軍は5万人、籠城する明・朝鮮連合軍は5千人で日本軍の圧勝。もはや戦いというより虐殺に近かったらしいね。

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この庭園はきれいやったわ。しばし見とれてしまった

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このまま北上する日本軍、再び漢城を目指す黒田長政隊5000人と漢城死守を厳命された平壌に駐屯していた明軍3000人が激突(稷山の戦い) 

今までの戦いに比べると小規模な戦いで双方決着つかず

 

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やっとこさ忠烈祠についたで。文禄・慶長の役で戦死した兵士、庶民の位牌が祀られている

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慶長の役初戦の水軍戦で大敗を喫した朝鮮軍、残された水軍船は10隻足らず。対する日本軍の100隻以上に挑んだ海戦(鳴梁海戦) ここで水軍を指揮したのが朝鮮の伝説とも言われている「李舜臣」や。現在の韓国海軍の艦名にもなってる有名な人だよね。

数的劣勢をはねのけ潮の流れを巧みに読んで日本の水軍を撃破、日本の水軍は30隻以上の船を損失、そして村上水軍の歴戦の雄「来島通総」は討ち死に

 

朝鮮軍会心の勝利やっとキタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

 

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朝鮮に侵攻した日本軍ですが現地での築城もおこなっていたそうで、日本から左官職人なんか連れてきて蔚山で城を建設していたところを明・朝鮮連合軍6万人に囲まれてしまいました。籠城するのは浅野長政率いる2000人。30倍近い戦力差にもはや絶望感いっぱいじゃね? 何度も降伏勧告がされましたが浅野長政は拒否

そうこうしているうちに加藤清正の大軍が到着しこの戦いは終了となったそうだよ

 

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そしてついに秀吉の逝去キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

はいはいとっとと日本軍撤収ねということで追撃してくる明・朝鮮を振り切って撤収じゃぁ。途中で島津義弘が泗川で包囲されたが寡兵で撃破!!(泗川の戦い) 10万人の大軍を7000人で打ち破ったっていうのはいくらなんでも盛ってるとは思うが島津義弘は朝鮮の役で義弘は「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と言われ恐れられていたそうだよ

 

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簡単だけど朝鮮出兵の歴史はこんなところ。アクセスも地下鉄1号線トンネ(東莱・Dongnae)駅からタクシーで数分だし近くに来たら寄ってみてもいいかもね

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